日本映画輸出振興協会 怪獣映画製作に税金が使われた時代

日本映画輸出振興協会

 怪獣映画製作に税金が使われた時代

 (この文章は須賀川市のFM曲、ウルトラFMで放送れる番組「セルクルさわやかライフ(毎週水曜午後1時から放送、再放送は毎週土曜午後1時半)」で放送された内容の原稿をブログ用に編集したものです)

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日本映画輸出振興協会登場

まさに怪獣ブームと呼ばれた昭和41年の5月、財団法人日本映画輸出振興協会という団体が設立された。この団体は、当時大人気だった円谷英二監督が関わった特撮怪獣映画が海外でも大変売れていたので、国が助成金を出してもっと作らせようという協会である。

特撮、怪獣映画に限定したものではないが、海外で売れたものはそういう映画しかない。国から税金を原資とした助成金が出るとはすごい。今から考えると冗談みたいな話だが、これは事実である。

昭和29年、「ゴジラ」に始まる日本の特撮、怪獣映画は大ヒットしたが、これは日本だけのことではなく、海外でもヒットした。当時は1ドル360円の固定相場だったのでこの稼ぎは大きかった。円谷英二が絡む特撮映画は、製作が発表されると海外のバイヤーがそれを聞きつけ完成前から買いたがるような状況だった。

昭和30年代も後半となると、円谷英二もいい加減怪獣映画ばかり作らされる環境にだんだん飽きて、もっと自由に作品を作りたいと考えるようになっていた。この時代に台頭してきたメディアはテレビ。円谷英二はテレビに興味を持ち、息子二人をテレビ局に就職させている。

そして、円谷監督はマスコミに東宝からの独立を宣言する。これは事前に何も聴かされていなかった東宝をあわてさせるが、こういうところが円谷監督らしいところでもある。これはスキャンダラスに報じられたので、東宝首脳部は火消しに走った。結果として、円谷プロダクションの設立は認可するけれど、その幹部には東宝の人たちを介入させることとなったようだ。まあ、この判断は正しかったと思う。会社は優れた発案やカリスマ性だけで運営できるものではない。

そういったことから他の会社の映画の仕事は日活の石原裕次郎主演、「太平洋ひとりぼっち」くらいだったが、テレビでは活躍する。1966年、1月2日からTBSで始まった「ウルトラQ」は大ヒットとなり、続く「ウルトラマン」もさらにヒットして、世はまさに怪獣ブームが到来、そんなときに幼稚園から小学一年生になった私なんかはそのさなかにあり、頭の中が怪獣だらけになってしまった。郡山のデパート、うすいでは屋上で怪獣ショーが行われ、ソフビ人形がいっぱい売られていた。

こういう状況の中で、日本もこれだけ怪獣が流行し、海外でも人気があるなら、これを日本の産業として振興していこうということになった。そこで、日本で作る特撮や怪獣映画に助成金を出し、より外貨を獲得しようという企画が起こります。それが日本映画輸出振興協会である。決して特撮映画に特化した制度ではなかったが、実際、ほぼ特撮怪獣映画しか海外ではヒットしていなかった。

財団法人日本映画輸出振興協会は1966年5月、まさにテレビではウルトラQが大ヒットしていて、怪獣映画も量産されるようになった頃にスタート、東宝では相変わらず怪獣映画が量産されていて、大映も1965年の大怪獣ガメラが低予算にもかかわらずヒットしたことにより、シリーズ化されていく。大映はガメラに続いて大魔神もシリーズ化したので、この時期、東宝を追いかける勢いを持ったことになる。また、大映は東京と京都の二カ所に撮影所を持っている強みを生かし、東京でガメラシリーズ第二弾、ガメラ対バルゴンを制作、京都では大魔神を制作して特撮映画新作二本立てを実現します。東宝にもできないことを行っている。

このような状況下、特撮映画が他の国にはあまりまねのできない日本独特の文化であり、日本経済に貢献しているのなら、それを振興する団体を設立してさらに盛り上げていこうということになったわけである。

この制度の中で、大映ではガメラシリーズ第3弾、「ガメラ対ギャオス」が融資の対象になり、大魔神シリーズ第3弾の「大魔神逆襲」も融資が得られた。また、今まで特撮映画には関心がなかった日活、松竹も急に怪獣映画を作り出す。日活は「大巨獣ガッパ」という作品を製作、この映画のヒロインは、先日亡くなった山本陽子。南海のオベリスク島で子供の怪獣を日本のテーマパークに連れて行ったら、親怪獣が連れ戻しに来るという、どこかで聞いたようなストーリーになっている。

松竹では、宇宙大怪獣ギララが制作される。人情ものの作品が多い松竹では異色であり唯一の怪獣映画だったが、宇宙船、アストロボートの噴射口に付着した謎の発光物体を持ち帰るとそれがら怪獣ギララが登場するという、後のエイリアンの先駆けになったような話でもある。

ガッパとギララの2作品については、円谷英二監督のところで働いていた技術者、渡辺明、川上景司といった人たちによって作られた日本特撮映画株式会社が特撮を担当している。

日本では現在でも怪獣映画、特撮映画が多く制作されているが、実はこんな風に政府が怪獣映画の制作を後押しした時期もあった。

一方、もう一つの映画会社、東映では、特撮映画は制作していたものの、社の方針でこのような融資を受けることはなかった。1966年に公開した「大忍術映画ワタリ」が大ヒット、海外でもヒットしたことにより、次に「怪竜大決戦」を制作、これは日本映画黎明期から何度も何度も映画化された児雷也の話を、最近の怪獣ブームに合わせて、変身するガマを怪獣並みの大きさにしたり、戦う相手も龍の怪獣にして作り上げた。配役も児雷也が松方弘樹、敵の大蛇丸(おろちまる)が大友柳太郎、ヒロインが当時のアイドル、小川知子とやたら豪華でもある。

現在でもコロナ下の日本で事業再構築補助金なんてのが出ているが、国が出す助成金というのはどこかこう、おかしな傾向がある。この日本映画輸出振興協会に関しても、そういった特撮作品には慣れていない日活や松竹に強引に怪獣映画を作らせた印象があり、近年の事業再構築補助金を思い起こさせます。慣れないことを無理にやってもそう簡単にうまくいかない。で、結局、映画会社五社に3年間で60億円もの投資を行うと謳ったこの制度は、たくさん作りすぎたために質の悪化につながり、それまで円谷監督が関わった作品はアメリカに30万ドルで売れていたが、一つの作品に付き5万ドル程度に買いたたかれてしまい、日本国内でも怪獣映画のあまりの粗製濫造により怪獣ブームが終演してしまうという事態になった。あまりにもたくさんの怪獣を一時期に見せられた当時の子供たちは怪獣に飽きてしまい、次に起こった水木しげるや楳図かずおに代表される妖怪ブームに注目した。もくろみは完全に外れた。これについては、円谷監督もシニカルに回顧していた。

 

永田雅一の暗躍

 さてこの財団法人日本映画輸出振興協会、何がきっかけとなって発足されたかというと、実は大映の社長、永田雅一が政界に働きかけて始まっている。政財界に通じていた永田雅一しかできないことともいえる。

 最初のガメラの公開は1965年11月27日。これが低予算の割に大ヒットしたので、永田はこれはいけると思ったのだろう、自分で作る映画のため政府から金を出すことまで考える永田はなかなかやり手である。

 ガメラは海外市場でも大変人気があり、だから第4作、「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」からは主人公を日本人の少年と白人の少年にし、海外でもあまり違和感なく見られるようにするなど工夫もしていた。

 しかしこの永田雅一社長、我らが円谷英二監督とは深い因縁がある人物としても知られている。円谷監督としては、どちらかといえば敵みたいな存在。だから日本映画輸出振興協会についても、シニカルな目で見ていたのだろう。

 1930年頃、日本映画もようやくトーキー、音付きになっていた頃、日活の社員であった永田は当時松竹にいた円谷英二に移籍を持ちかける。給料を倍にしてやるからこっちに来いというものだ。日活は歴史のある会社だが、当時トーキーの技術がなかった(犬塚稔氏の話)。そこで、技術者英二に目を付け、当時の相棒の犬塚稔などと一緒に引き抜きを狙った。

 ところが、給料が倍は嘘、現実にはそんなにもらえなかった。当時コンビを組んでいた犬塚氏の話にでは、日活は松竹以上に古い体質の会社で、新しい取り組みなどは全然させてもらえなかった。円谷英二はここでしばらく一緒に頑張ってきた犬塚稔と別れ、それぞれ別の道を歩むことになる。これは仲が悪くなったのではなく映画界での方向性がお互い違ってきたからである。日活在籍時、アメリカ映画、「キングコング」も見たものだから、それは当然である。

 1948年、大映幹部となった永田は再び円谷監督に声をかけ、戦後初の本格的特撮映画、「透明人間現わる」を企画する。戦時中、ハワイ・マレー沖海戦などで発揮された円谷監督の特撮技術を駆使して、日本版透明人間を作ろうという試みである。当時の円谷監督は公職追放指定を受けて苦しい時期であり、うまくいけば大映の所属になるという永田の話を信じてこの映画に必死に取り組んだ。

 この作品はそれなりに面白かったが、大映側としては成功とは認識しなかったようである。細かいやりとりは不明だが、今考えると、永田雅一にだまされたみたいなものだったのかも知れない。まあ、仮にここで円谷監督が大映に入ったなどということがあったら後の映画界は大きく変わっていただろうし、いろいろ考えるとそれはなかった方が良かったと思う。

 永田雅一は1906年生まれで円谷監督の5歳年下。20代前半のうちに円谷監督らを手玉にとるのだから、なかなかのやり手。京都に生まれた永田は、両親の商売の失敗によって小学校を出ると親戚を頼って上京、そこで関東大震災に遭い、片付けなど今でいうボランティアなどには積極的に参加したす。京都に戻ってからは当時の流行で社会主義に目覚め、いろいろ活動をするようになるが、当時の暴力団だった千本組という一団にも属し、警察からマークされる。これを知った母親は永田を勘当する。

 家を追われた永田は当時の映画界で知られたマキノ雅一と知り合いだったことで日活に入社、無声映画時代の映画界は野外ロケが普通で、ロケ現場にファンが集まり、撮影しているのにおひねりが飛び交うような日々だった。永田はそのおひねりを集めて女郎屋に通うようなこともしていたという。

 円谷監督の引き抜きを狙うなどいろいろ尽力したが、1934年には日活を退社、大映設立のメンバーとなる。戦後は円谷監督と同じようにGHQによって公職追放指定となるが、すぐに復帰して大映の幹部となる。この時期、岸信介とか河野一郎のバックアップを受けて政界進出を図るものの落選、しかし「妖怪」と言われた安倍晋三の祖父、岸信介などとも交流があったのだから、政界との結びつきは強かった。

 戦後の映画界の中で、永田は大映で「羅生門」、「雨月物語」、「地獄門」などカンヌ映画祭でグランプリを取るような作品を連発して大映をもり立てる。敗戦で沈みきった日本人にとって、国際グランプリで日本映画が優勝することは大変大きなパワーになったといえる。このように永田は全くダメな人とかではなかった。紫綬褒章など、叙勲も三度ほどしている。

 そういう永田雅一だが昭和30年代後半になると映画もテレビの影響を受けて次第に低迷、名作を送り続けた大映も苦戦が続く。いろいろ考えたのだと思うが、東宝の独占だった怪獣映画に挑戦しようという発案も、円谷監督といろいろ因縁と交流のあったこの人物からすれば当然だったかも知れない。

 ガメラは永田雅一が飛行機で移動しているとき、窓から見えた島の形が亀に似ていることから発案されたなどという逸話が残っているが、最初の段階では低予算映画であることに加え、担当する監督がそれまで一本の映画しか監督したことがない、しかもヒットしなかった映画の監督だった湯浅憲明であり、あまり大きな期待を持ってはいなかったかも知れない。

 しかしガメラは亀なのに空を飛んだり子供好きだったりするキャラクターが受けてヒット、シリーズ化する。私も当時のガメラを見た。須賀川ではなぜかピオニ劇場(あまり大映映画を上映しない映画館)で公開され、私は父やいとこたちと見たが、映画館は満杯だった記憶がある。当時の映画ファンは、東宝ではない新しい怪獣映画の誕生を歓迎していたようにも思えた。

 そういう機を見るのに便で、政治に世界にも精通し、頭の切れる映画人だったからこそ、日本映画輸出振興協会のような団体を立ち上げることができたのだと思う。

 

ギララとガッパ

 日本映画輸出振興協会が出資した代表的な作品を検証しよう。最初は「宇宙大怪獣ギララ」。松竹が製作し、1967年(昭和42年)3月25日に公開された怪獣映画である。

 宇宙船の事故の原因を調査するため地球を飛び立った宇宙船アストロボートの乗組員たちは、宇宙船噴射口に付着した胞子上の物体を採取、地球に持ち帰ると、これはエネルギーを吸収して巨大化する怪物だった。怪物は研究所を脱出、エネルギーと求めて発電所などを強襲する。人類は必死の抵抗を試みるもギララと名付けられた怪物は無敵であり、光の球となって次の標的(エネルギー源)まで飛んでいく。

 しかし、宇宙空間に存在するギララニウムという物質が弱点であり、それを宇宙で入手した隊員たちによって再び元の胞子上の物体となる。

ますます加熱する怪獣ブームによって、それまでその手の作品のない松竹、日活も興味を示した。その原動力となったのは永田雅一の尽力で設立された日本映画輸出振興協会である。1億5千万円の予算をかけて制作された「宇宙大怪獣ギララ」は、特撮を元・松竹の川上景司、元東宝の渡辺明、小田切幸雄らによって結成された特撮請負会社「日本特撮映画株式会社」に担当させた。彼らは同年の日活映画「大巨獣ガッパ」も担当している。ストーリーも他社と差別化すべく凝った作りになっており、宣伝もかなり力を入れた。

 松竹が並々ならぬ覚悟で取り組んだギララだったが、どんなにストーリーが凝っていても、出てくる怪獣が東宝やテレビに出てくる怪獣と製造元が同じなので、結局あまり変わらない印象になってしまった。現場はともかく、制作側のトップは怪獣映画に慣れていない人たちだったので、期待に外れ、月並みな映画になってしまったように思える。

 ちなみに本作はまだデビュー当時の初代仮面ライダー役として知られる藤岡弘が脇役として出演しており、1984年公開の「男はつらいよ・寅次郎真実一路」の冒頭場面にも登場する。しかし寅さんに倒され(もっとも、これは寅さんの夢の中という設定)、映画の中で、一度もギララという本名で呼ばれず、劇中「ゴジラだ!」などと呼ばれているのも悲しかった。

 

大巨獣ガッパ

大巨獣ガッパはこんな映画である。

週刊誌記者の黒崎は、カメラマン、生物学助教授らと出版社社長の命を受け南太平洋の探検を開始、これは会社が計画中の一大テーマパークを実現する目的があった。

彼らは南洋オベリスク島に謎の石像を発見、一行は島民達に遭遇するが、彼らの一部はなぜか日本語を理解でき、「日本人が帰ってきた」と手厚い歓迎を受ける。巨大な石像の元にたどり着くと、突如発生した地震によって石像は倒れ、そこに2メートルほどの大きな卵があり、卵が孵化、子供の怪獣が登場する。彼らはそれを日本へ連れ帰ってしまい、子供が連れ去られたことを知った親ガッパは怒りに荒れ狂って島の集落を襲撃、日本を目指す。

ついに2羽の親ガッパが出現、熱海市を破壊する。オベリスク島民サキは子ガッパを返すよう説得するがかなわない。東京全滅が懸念され、彼らは子ガッパを羽田空港で解放。親ガッパは再会し、3羽で南を目指して飛び去っていく。

 こちらはオリジナル性が薄い、大変陳腐なドラマという感じだ。話が偶然、偶然の連続で、親怪獣が子供を連れ返しに来るという設定はイギリス映画、怪獣ゴルゴのパクリのようにも思える。怪獣を連れてきて一大レジャーランドを作るのもモスラ対ゴジラでやっているし、やや安直な印象だ。

 ギララもガッパも当時のプラモデルメーカー、ニットーによってプラモデル化されたが、映画のヒットには至らなかった。

 ちなみにガッパは、当時のうすいデパート(郡山市の老舗デパート)屋上で怪獣ショーをやったとき、ウルトラマンに登場する怪獣、ゴルドンとの対決をライブでやっていた。全く関連のない二頭だが、実は製造元が同じだったりする。私たちは異種格闘技戦のように見ていた。

 

日本映画輸出振興協会は成果があったのか?

 さて、この日本映画輸出振興協会から支出を受けた映画はどんな収益を上げたのだろうか?昭和45年4月14日の内閣委員会でこの協会の問題が取り上げられている。質問者は当時の政治家、大出俊。この制度は円谷監督の没後まで続いていたということになる。この質問の中で、振興協会から出資を受けた映画の数字が示されている。

 まず松竹の宇宙大怪獣ギララはなんと4800万の赤字。松竹は「智恵子抄」とか「黒蜥蜴」なんていう映画も協会から融資を受けているが、黒字になったものはことごとくなかった。松竹は「昆虫大戦争」というSF映画も制作するが、これがなんと1億4千万の赤字。制作費が1億4千6百万、国内の収益が2千万足らずで、海外では151万円しか売り上げがない。決定的な失敗というわけだ。私もこの映画を昔見たが、当時、なんというつまらない映画だなと思った。松竹は、この時期の「男はつらいよ」作品も融資の対象にしていて、これが3000万の赤字という。「男はつらいよ」なんて海外の人にわかるわけないと思えるが・・・。これを選考した協会もまともとは思えない。

 日活の大巨獣ガッパは、4100万円の赤字という。これらは、制作費に対して、日本と海外でどれだけ興行収入があったかで出された数字である。なお日活では「神々の深き欲望」という映画で1億の赤字を出している。今村昌平の芸術作品だが、出演する嵐寛寿郎は、あまりにも強引な撮影による制作であり、逃げ出したかったとも述べている。

 さて、永田雅一率いる大映がこの協会の提案者だが、これはどうなのだろうか?まず、最初の融資の作品、「ガメラ対ギャオス」は9000万円の黒字。さすがだ。提案しただけのことはある。ガメラ対ギャオスについては、対戦相手のギャオスはその後の「ガメラ対大悪獣ギロン」にも出ているし、平成ガメラシリーズにもたびたび出ている。やはり人気怪獣だ。ガメラが子供を助けた映画でもあり、こういうキャラは海外で受けるように思います。

 そしてガメラシリーズ次回作、「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」は、7000万円の黒字。この作品では、海外市場を意識して主人公を日本人と白人の少年にしている。作品も、ボーイスカウトのリーダーとして後のウルトラマンタロウとなる篠田三郎が出ていたり、後の大映お色気シリーズの中心人物たる渥美マリも出ていたりする。しかしながら、ガメラシリーズ第5作、「ガメラ対大悪獣ギロン」は2000万円の赤字。これも海外では売れたが、国内での成績が悪かった。この作品については、明らかに低予算でこじんまりとした内容なのと、登場人物がすごく少なかったりガメラが真っ二つになった宇宙船を火炎で溶接したりと子供じみた演出があって、これは仕方ない。

 さて、大魔神シリーズ第3弾の大魔神逆襲はどうだったのだろうか?これが2千万の赤字。大魔神は海外でも人気があると聞くが、当時はまだ理解されなかったようだ。

 しかし、大映はこの時期量産していた怪談映画も融資の対象にしている。昭和48年作、巨匠、山本薩夫監督による、牡丹燈籠を扱った作品として最高傑作といえる大映映画、「怪談牡丹燈籠」も実は対象となっているが、これが3600万円の赤字だった。あれだけの傑作だが、海外で受け入れられるにはまだ日本文化の理解が足りなかったのかも知れない。それから、藤村志保主演の「怪談雪女郎」、これは雪女の話を映画化したものだが、3500万円の赤字。こういう映画はyou tubeなんかでよく海外から上がってくるので、時間をかけて理解されたのではないかと思う。戦後まもなく、大映の文芸映画が海外の映画賞を次々と獲得したが、たとえば「羅生門」なんかだが、興行的には全然ダメだったらしい。

 さらに大映は、戦争映画、「ああ海軍」も融資の対象にしたという。これは3000万の赤字だが、こういう全く日本的な作品が融資の対象になるということ自体がおかしい。絶対日本でしか受けない内容だと思う、この協会の組織もかなり異常だと思う。

 この制度について、さらにおかしな点をいうと、国会質問の中で、石原プロのような独立プロが認められなかったことと、東宝、東映などが全く関わらなかったことがある。独立プロは希望したけれど経営が脆弱などの理由で断られたようであり、東宝、東映は最初から融資を希望する意志がなかったようだ。

 結局この制度は、斜陽の映画界を救うためという大義名分はあるけれど、政治力のある永田雅一のための制度だったともいえる。日活も松竹も、結局は永田雅一に乗せられただけだったようだ。

 それと、変に制作費が高いというのもある。映画各社は、どうせ助成金が国からもらえるのだから、予算は贅沢に使ってもいいというような考えがあったのかも知れない。

 この国会答弁が行われた翌年、大映は倒産している。まさに円谷英二の天敵、永田雅一は国会でその正体を暴かれ、最後の時を迎えたという感じだ。そういうこともあり、日本映画輸出振興協会はその後廃止となった。

 日本映画輸出振興協会については、今も続く日本の悪習というか、あまり時代に合わないものが延々と続いてしまうという問題の典型であるとも思える。クリーニングでも「生活衛生営業指導センター」なんていう全く意味のない組織が未だ続いていて、零細業者向けの講習会を大手業者も受けなければならないなどということになっている。日本映画輸出振興協会も、振興しようと思っていたのが、結果的に日本映画が安く買いたたかれるという結果になった。しかも、紹介したように海外で受けるとはとても思えないような映画にまで融資されていて、本当におかしなものだった。これで怪獣ブームも終わってしまった。本当に迷惑な話である。

 クリーニングでも、何十年間も起こっていない衛生面の問題ばかりを取り上げ、業界の労働環境や保管クリーニング(実際は保管していない)、意味のないしみ抜き料金など詐欺的商売を見逃す結果となり、低価格競争を放置している。クリーニングは日本のデフレの一端を半世紀も担っている。もちろん、これが日本の国力を下げる結果にもなっているのだ。意味のないことを延々と続けさせる政治、行政があって、日本は30年間も国力を下降させているのだ。

 事業再構築補助金も、いろいろな業種の人々に新規事業に目を向けさせるのは理解できるが、「餅は餅屋」という言葉があるとおり、慣れない仕事を急にやってもそう簡単に成功できるとは思えない。日本映画輸出振興協会同様は特撮の神様たる円谷英二が苦々しく見ていたが、近い将来、同様の結果が出てくるようにも思える。

 

(この文章は須賀川市のFM曲、ウルトラFMで放送れる番組「セルクルさわやかライフ(毎週水曜午後1時から放送、再放送は毎週土曜午後1時半)」で放送された内容の原稿をブログ用に編集したものです。口語体など、多少の無理はご了承ください)