令和温泉探訪記② 磐梯熱海温泉
60年ぶり!熱海の共同浴場
2024年5月24日
子供の頃に
最近悩んでいることの一つに「酒さ」の問題がある。酒さ、とは、顔面に赤い斑点ができる皮膚病である。原因は不明だそうだが、一応皮膚科に通って薬はもらっている。
こうなってみると皮膚の病に効く温泉に行きたくなるものである。・・・あった。遙か昔の記憶に、夏にあせもや湿疹ができると、磐梯熱海温泉に行ったものだ。磐梯熱海温泉というと大きな旅館が建ち並ぶ歓楽温泉街の印象が強いが、その中に共同浴場があり、それは昔、何度か連れて行ってもらったものである。いわれはわからないが大人は「くさっぽ熱海」といっていた。「くさっぽ」はおそらく皮膚のできものだろう。そういうものに効能がある湯ということだ。
私は基本的に皮膚があまり強くない。夏になると湿疹に悩ませられる(最近はそうでもないが)。大昔、まだ4,5歳だった頃、母親には蒸気機関車に乗って連れて行ってもらった(蒸気機関車に乗った経験は、このときしか記憶にない)。祖父にも連れて行かれた経験がある。はるか60年前の話である。
インター食堂
ナビで電話番号を入力すると、磐越自動車道の磐梯熱海インターで降りるとなっていたが、ここは郡山インターで降り、国道49号線を会津方面に向かう。すると昔よく行ったインター食堂が見えてきた。
インター食堂はおそらくトラックなどのドライバー向きの食堂である。駐車場が広く、料理が皆大盛りだ。ここは久々に寄ってダイナミックなカツカレーを注文、平らげた。カツが見事に揚げられていておいしかった。
温泉到着
さて、磐梯熱海温泉の共同浴場はよくよく磐梯熱海駅の近くにある。駐車場はないみたいなので、駅の東側にあるお土産センターみたいなところの駐車場に停めた(ただ停めてもらうのは悪いので、帰りに味噌漬けチーズとかお菓子のお土産を買った)。
磐梯熱海駅の前を通過し、改札口を見たら、なんだか夏休みに旅行に来たようなワクワク感があった。中学から大学生くらいまでの間、レジャーはなぜか磐越西線だった。猪苗代、磐梯高原、会津若松になにか楽しいものが待っている気がした。こんな調子で温泉へ。
ひなびた共同浴場
磐梯熱海は今も大きな温泉旅館がたくさん連なっているがそういう巨大温泉の建物の陰にひっそりと隠れるように共同浴場があった。「霊泉」元湯と書かれている。入り口におじさんがいて、600円払って入る。もうちょっと時間が過ぎると安くなるらしいが、仕方がない。
温泉は古い建物だが清潔そうで、ロッカーも100円入れなくていいものだった。これなら気軽に来ることが出来る。浴室に入ると、確かに60年前、こんな温泉だった気がした。タイル張りの浴室の真ん中に広い浴槽があった。
早速ケロリンの桶に湯を入れると、「冷たい!」。ああ、ここはすごくぬるい湯だったんだ!思い出した。湯には4人の年配の先客がいたが、みな一言も発せずにただこの冷たい湯に耐えるように入っていた。風呂の気持ちよさとは縁遠い表情である。やはり自分のようになにか病気があってそれを癒やしに来たのだろうか?冷たいところに皆無言・・・。なんだかなあ。別に温かい風呂もあって長く入る人は交互に入りながら過ごしていた。先客たちはへばりつくようにいつまでも湯につかり続け、私は誰よりも早く上がった(それでも結構入っていたが・・・)。
一方、女湯の方からは話し声や子供の声が聞こえてきた。おばあちゃんたちがアトピーの孫を連れてきているんだという。アトピーはひどい。効果があるなら大変役に立っている湯なんだと思った。
とんでもない思い出
こういう環境のせいか、昔、この浴場でのとんでもない思い出がよみがえってきた。子供の頃、祖父に連れられてここに来たが(確か同世代の子供と一緒だったと思う)、私は当時駄菓子屋でざらに売っていた指輪型の水鉄砲をこの浴場に持ち込み、どっかのじいさんの股間めがけて発射していたのである。
「コラ!」祖父にすぐ怒られたが、こんなことをする私に祖父も面食らったようだ。しかし今考えると、その構造上、一度に一発しか発射できない水鉄砲は確実に標的をとらえていた(当時の記憶)。少年時代の自分のスナイパーぶりに感心した。何という変なことを思い出したのだろう。しかしこういうことは案外覚えているものだ。
磐梯熱海温泉
こういう共同浴場はあるものの、磐梯熱海温泉といえば昔から大きな旅館が建ち並ぶ華やかな歓楽温泉という印象が強い。1962年には森繁久弥主演の「喜劇駅前温泉」の舞台となり、バブル期には多くの客を集めて賑わった。今後どのようになるかわからないが、共同浴場は世間の喧噪に関わることなく、ひっそりと営業を続けていた。これからはまた通うようにしたい。いつまでも営業してほしいものだ。60年ぶりには入れたのは本当に良かった。