2011年3月11日(金)
(ホテルから取った金沢駅前の風景、この直後、地震が発生する)
午後2時46分、地震発生。金沢市内のホテルで国会中継をテレビで見ていたところ、緊急自身速報が鳴る。宮城県沖ということだったが、自宅からすぐ帰れとの連絡があり、この後すぐに予定されていた会合を欠席して帰る。北陸自動車道、磐越自動車道を通ったが津川インターから先は通行止め。一般道を通って夜11時過ぎに帰る。
自宅は会津から妻の家族が片づけを手伝いに来ていた。ピアノも動く地震。壁は壊れ、余震が続き、比較的安全と思われる座敷でコタツを中心に寝る。水は止まっていたが、電気はかろうじて通っていた。道中、妹や娘から動揺した電話が入ってくる。アメリカから末の妹からも電話があり、この地震がアメリカでも大きく報道されていることがわかる。
会津の女房の実家からは、タンクに入れてたくさん水を持ってきてくれた。
(追記)
この日は業界の会合が金沢市であり、それに向けて出席の準備をしていたところ、テレビから緊急地震速報が入り、しかも、福島県で震度6強などと、考えられない数字が出ていたものだから、自宅に電話したが誰も出ない。電話が混雑していたためだが、ようやくメールで女房から「大変だ」とか「うちがこわれた」などというメールが来て、尋常ではない事態になったことを知った。当然会合は欠席、車で自宅に急いだ。福島から車で出かけていたことが幸いした。もし電車で行っていたら、地震後三日以上かからないと帰られなかったと思う。
しかし道中は大変だった。雪の北陸自動車道を急いだ。ラジオからはずっと被災地の悲惨な様子が伝わってくる。被害はどんどん広まるばかりである。
電話は全く通じないが、最初にかかってきたのはアメリカに住む下の妹からだった。「そっちは大変だけれど大丈夫?」といってきたが、何しろ現地にいないのでわからない。次に上の妹から泣きながら電話がかかってきた。不安はますます広がっていく。
石川県、富山県を経て新潟県に入った頃、娘から電話があった。娘は石川町の学校からスクールバスで帰る途中で、やっと電話がつながったといっていた。家族とも電話がつながり、どうやら家族は無事だったとのこと。SAでミネラルウォーターを大量に購入しておいた。東京の友人からも電話があった。
しかし、高速道路も通行止めになっているらしい。よく確認したら、福島県近くの津川インターまでは高速で行けるらしい。ともかくも前進する以外にはない。全く被害のない地域を通って行くので、ラジオから聞こえてくる話がとても信じられなかった。
津川を降り、国道49号線を通って故郷へ向かった。ようやく福島県に入るとやっていたスーパーに入り、カップラーメンを大量に購入した。故郷は、どうなっているのかわからない。このあたりでようやく妻と電話で話すことができた。会津から家族が応援にやってきているということだった。
会津のあたりで会津工場マネージャーに電話すると、会津は全く被害がなかったらしい。風景も何も変わっていない。更に進み、猪苗代でガソリンスタンドに寄り、満タンにした。これは後で大変役に立った。
国道49号線から4号線に入る頃になり、道路がデコボコし、この辺でやっと地震が来たらしいことがわかった。建物の瓦が落ちている。もう午後11時で、街は大人しくなっている。
自宅へ着き、あわただしく動き回っている家族がいた。割れたガラスや食器を片づけている。電気は通っていたが水道がダメで、トイレは外で、ということだった。何度も何度も余震がやって来る。その日は座敷で服を着たまま雑魚寝したが、夜には何度も余震があり、そのたびに家族は表に飛び出した。
3月12日(土)
私の会社は工場が三つあるが、会津工場のみ大丈夫。須賀川、郡山工場は機能ストップ。しかし、工業地は割に地震の被害が少なく、機械などもほとんど損傷なし。従業員と協力して回復をねらう。
工場が大丈夫でも、店舗のあるスーパーマーケットが営業不可能。それぞれ閉店しているため、こちらも営業できないし、営業できても工場の稼働ができなければ話にならない。
須賀川市内を歩いてみると、製造工場大手の林精機、須賀川市庁、3つのホテルなど鉄筋の建物が軒並み損傷。林精機は倒壊した。全体に町の中心部に被害が大きく、郊外は無事という感じ。旧橋本書店、土木建築業の橋本組など鉄筋の建物が倒壊していた。鉄筋の建物がやられ、木造はそうでもないといった感じ。瓦屋根はことごとくボロボロだ。とにかく、これだけ大きい地震が来たのは初めてだろう。
自分の部屋は本やCDが全部崩れ、床に散乱している。落ちてきたというよりも、洗濯機の中で廻されたような感じだ。片づけてパソコンの電源をつなぐと、ネットは損傷がなかったようだ。
この日も余震を恐れ、コタツで雑魚寝。食事は三食おにぎりだった。女房の実家のお父さんが庭に仮設トイレ(小さなテント)を作ってくれた。
(追記)
昨日の状況を家族から聞くと、息子の友人がたくさん自宅にやってきてみんなで遊んでいたみたいだ。ところが地震になり、みんなあわてて庭に避難したそうだ。長女はまだ帰らず、二女は友人達とカラオケに行っていて、その安否確認だけで大変だった様だ。
須賀川市は「岩代の国」などといわれ、大きい地震は来ないものだと思われていた。保険業者も度々、「全国で一番保険料金が安いのはこの地域」などといっていたものだ。まさかこんな大きな地震が来るとは誰も考えていなかった。
昨日は深夜に帰ってきたので、この日、市内を車で廻ってみて、改めて被害のひどさを実感した。
会社に行ってみると、こんな状況なのに従業員が出社してきたのには感激した。事務所はガタガタだったが、工場はさほどでもなかったこと、従業員にどうやら被害がなかったようなので安堵した。
午後から自室の片づけを行った。とにかく部屋に入れない。私の書斎はドアが二つあるのだが、両方とも何かがつかえていて入れないのである。本棚とかが邪魔になっているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。ドアの隙間から、床に散らばる本、CD,DVD,ビデオなどをチビリチビリと取り出し、少しずつドアを開け、やっと部屋に入れた。
部屋の中はほとんど全ての本が床に放り出され、シェイクされて均された様になっている。この「本の海」によってドアがふさがれていたことがわかった。震度6強とはこういうものなのだ。(この写真の向こう側のドアを見ると、何で開かないのかわかると思う)
3月13日(日)
全く機能しない街では、まず食料の調達が必要となる。スーパーは休業状態、たまにやっても人が大勢並んでいる。コンビニも同様。街のミニスーパー(八百屋に毛が生えたようなもの)はかろうじて営業しているが、価格は高く、人が並んでいる。
しかし、ガソリンスタンドが休業状態。どこかが開店すると、ものすごい行列が並び、とても入れてもらえない。
(追記)昨日まではすさまじい地震に遭い、とにかく眠れる場所を作るのに必死だった。三日目からは物資の調達が始まり、まずは食料を探しに行くが、スーパー、コンビニとも営業していない。コンビニは物資が届かないため、スーパーは建物が破壊され使える状態にないからだ。普段は見向きもしない街中のミニスーパーは、夫婦で旧式のレジを使用し、必死で営業している。店主に聞いたら、徹夜で市場に並び、品を調達したのだという。
3月14日(月)
なかなか手に入らないが、あちこち廻って材料を集め、夕食に豚汁を作ってみる。家族に喜ばれた。ただし、豆腐は入っていない。
須賀川市から、ゴミは通常の曜日に出していいとの連絡あり。しかし地震によるがれきは別なところに出すようとのこと。須賀川市民への連絡が、スピーカーによって流れるようになる。もはや機能していない市役所からスピーカーで市民への注意が流れるのは、まさに非常時。
3月15日(火)
従業員が会社に集まるが、みんな余震に脅えている。
従業員の中には、水道が出なくて風呂に入れない人がいる。そこで当社 の事業所の一つに風呂の設備があり、水も通っていることからこれを従業員のために提供する。本社工場長は、いわきから親戚が疎開してきて8人の大所帯に なっていたので、大いに喜ばれる。他にも従業員が来る。
地震だけでなく、原子力発電所の問題が起こってくる。
自宅の水道がかなり弱いが回復した。これでトイレ、風呂に入れるようになる。ただし、燃料の灯油が心配。これから供給されるのだろうか?
3月16日(水)
福島第一原子力発電所が放射能漏れの可能性があり、緊張が高まる。須賀川市の広報から「あまり表に出るな」とスピーカーで流される。授業員はみんな脅えている。私は昭和29年、ビキニ環礁で水爆の死の灰を被った第五福竜丸の乗組員が、黒い雨を浴びた船長がなくなったものの、他の乗組員がその後も健在であった上、乗組員の一人、大石又七氏はその後クリーニング業者になり、現在も健在であることを説明し、放射能に関する誤解を解くべく説明、あちこちでこういう説明を繰り返す。
ただ、テレビ報道は深刻さを増している。余震も数多く起こり、マグニチュード5以上の地震が、当たり前のように一日に数回起こり、これも不安材料である。自衛隊が原子炉に放水などしているが、こんなもので効果があるのかわからない。
自宅の隣に古い工場があるが、ここから水漏れ。自宅までの配管が古く、途中でヒビが入ったらしい。配管工さん達が来て、直してもらう。
電話がかなり入りにくかったが、このあたりからだんだん良くなってくる。全国から嵐のように安否確認の電話が来るのはいいが、あまりにも多すぎていちいち相手にするのも大変。
その中で、クリーニング業界紙の一社が、「どの程度の被害か」、「工場は動いているのか」「店舗は今どのくらい営業しているか」などやたら詳しく聞いてきた。この業界紙は金をもらって調子のいいことを書く提灯記事で有名なところなので、適当に受け流す。
3月17日(木)
本社工場のボイラーで、部品の一部が損傷。郡山工場から同機種の部品 を外して持ち込み、工場稼働可能となる。ただし、燃料が不安である。タンクの中に重油があるが、それが尽きたら補填されるかどうか怪しい。配送車のガソリ ンも、こんな状況では、いつ入ってくるかわからない。
会社で打ち合わせを行い、燃料(重油)も心許ないことから、とりあえずは水洗いのみ行うことを決め、避難している人の無料クリーニングや水の止まっている家庭向けの洗濯代行を行うことを決定する。稼働店舗は中通り地区で6店舗。壊れてできない店や、本体自体の怪しい店は営業ができない。
しかし、営業しても、ガソリンが届かないと店舗に配送できない。また、店員達はそれぞれ車で店に行くので、出勤もままならない。燃料不足は一番深刻である。
須賀川信用金庫の職員から電話があり、金融機関の建物もかなりやられたとのこと。松川氏は「もうダメだ」的なあきらめのムードがあり、どうしようもないという虚脱感が漂っていた。街中のアパートなどもかなり倒壊し、みんな体育館などに避難しているのだという。
他にも、数軒のスナックなどが営業を再開したと聞く。客なんか行くのかと思ったが、少しでも売上を上げないと・・・という涙ぐましい努力をしている様だ。
3月18日(金)
テレビのテロップでよく生活情報が流れていることから、昨年コンサートなどでお世話になったAテレビと、最近接触のあったBテレビに連絡。Bテレビは即座にOKだったが、Aテレビは5日かかるという。こういう、いざというときの対応に差が出る。
避難者が身近で一番いるところは須賀川アリーナ(約700名という)。そこで当社スタッフがアリーナに行って、必要であれば奉仕する旨を伝えたが、市役所から派遣されたという責任者は、「寒いから着替えない」、「着替える下着がない」、「誰かがやると、他の人もオレもオレもとなり、混乱するから平等を保てない」といろいろ理由を言われ、後にしてくれといわれる。管理者もそれなりに大変なのだろうが、この話を地元の新聞記者に言ったら、「あいつらはだらしないんだ!」と、こっちがビックリするくらいすごく怒っていた。
田村氏の老人ホームから、洗濯ができなくて困っていると連絡があり、受けることにする。担当者が品物を取りに行く。この様に、こういう施設の仕事を担当するリネンサプライ業者は、いざダメとなると全く機能しなくなる。そうなると、こっちの出番となる。
街を見渡すと、意外なことに、大手、個人を問わず、ラーメン店がかなり営業している。材料が調達できるのだろうか?どこも混んでいる。
3月19日(土)
朝のテレビで、洗濯ができず困っているという避難者の声が放送されていた。そうなれば、ボランティアは重要であると思った。このことを中央の役人に連絡してみたが、「行政はバカじゃない。ちゃんと受け入れてやってくれるはず。大丈夫だ」と言われた。どうも、地方で起こっていることは中央には的確に伝わっていないらしい。非常時だけに何とかしてもらいたい。
朝日新聞に無料クリーニングの報せが載る。昨日お願いして載せてもらったもの。新聞は自宅に届いたが、もう一部欲しいため販売店に行って、その部分を見せたら誉められた。
地元ショッピングセンターから、「制服が濡れてしまったため、洗って欲しい」との依頼あり。話を聞いてみると、今春新入生となる高校生用の制服が、地震の際作動したスプリンクラーの水でびしょぬれになってしまったとのこと。
新品がびしょぬれでは困るが、平成10年には洪水のさい、他の業者から預かった品を水洗いで復元した経験がある。多分、今回も大丈夫だろう。
当社のショッピングセンターにある自社コインランドリーに行ってみるが、かなりの人がいて、売上が最高値を更新したという。水が止まっていて、クリーニングができない人がいることを示しているが、同時に放射能の問題から、野外に干せない人が乾燥機を使用していることもあるとも思われる。
夜、組合の幹部で群馬県のT氏から電話が来る。あなたのやっているボランティアを紹介したいとの旨だった。
また、久しく連絡のなかった。横浜のSさんという業者から、「避難してくるなら歓迎する」という連絡あり。ありがたいことだが、ここに留まることを告げる。
一週間以上、夜はどこにも出ない日々が続いている。やることもないので、4歳の時に見て、感激し、怪獣の世界に浸ってしまった「モスラ対ゴジラ」(昭和39年東宝)のDVDを見る。
恐ろしくなってしまった。私を怪獣映画の世界に誘ったこの作品が、現状とあまりにも酷似しているからである。冒頭の嵐の場面は海岸線の津波が起こり、岸に船が打ち上げられる。まさに先日見たあの場面が47年前の映画で予感するように表現されている。
そして、干拓地からゴジラが登場すると、科学者のガイガーカウンターが激しく明滅する。放射能の恐怖である。まさに、今ここで起こっている恐怖である。なにもここでゴジラ映画の恐怖を感じなくてもいいのだが、現実の世界がそれそのものである。
映画は客観的な世界であり、ただ見ていればいいが、現実に起こってしまえば、こんなに恐ろしいこともない。ゴジラは水爆実験によって安住の地を追われ、人間社会に報復する設定になっていて、それを悪と決めることはできないが、東京電力は現実に存在する会社であり、そいつらがニタニタ笑っているのである。頭に来ないわけがないだろう。
(追記)
「ニタニタ笑っている」については、最初の説明のとき、並んで座っていた東電職員の中に明らかにそういう人物がいた。あとでいなくなったのは被災地の人達に配慮したからだろう。
3月20日(日)
いよいよ自分の車の燃料が怪しくなり、会社に自転車で行く。
地元紙にボランティアクリーニングの告知が載る。
市会議員を通じ、須賀川の公立岩瀬病院から、病院のシーツやタオルを洗ってくれとの依頼が来る。厳密に言うと、一般クリーニング業者が病院の品を預かるのは法的に問題があるのだが、リネン業者が仙台の業者で来ないため、病院としてはどうしようもないらしい。シーツをプレスする機械がないと説明するが、それでもいいという。しかし、入院している人のことを考えれば、受けざるを得ないかも知れない。
避難者へのボランティアについては、犬を連れた人が、「私、避難民だから、これ、無料で洗ってよ」などと持ち込む人がいると店舗から報告あり。無料だとこういう人が出てくるから困る。
夜、東京の業者から電話があり、しばらく話し込む。今回の地震はあまりにも規模が大きかったが、結局日本は地震国であることを証明したようなものであり、今まで取り組んでいたような建築基準法の問題については、やはり民主党議員が後援者に頼まれて進めているような安直な解決では、危なくて仕方がないのであると思った。地震は怖いということが改めてわかったのだから、建築基準法の違反については、大きい事故を防ぐためにも、厳粛に対処して欲しいものである。
地震から10日目のこの時点においても、マグニチュード5クラスの余震が真夜中でも起こるので、全然落ち着いていられない。この夜も夜中に二回ほど大きな揺れが来て起きあがった。依然として、パジャマは着て寝れない状況である。
今年正月に高校の同窓会が行われたので、参加者にメールを送ってみる。東京の同窓生から、心配だ、とのメールがあり、出してみることにしたのである。何人かから返事が来たが、地元に残る、という意志を伝える人が多かった。
3月21日(月)
地震から初めての雨天。この日はお彼岸だが、ほとんどの墓は墓石が倒れている上、雨の日は雨水に放射能が含まれているという話が伝わっており、墓参りに行く人もいない。
会社に行き、豚汁の炊き出しをしようと思ったが(以前から一年に何度かはこういうことをする。豚汁の他に、おでんなども作る)、材料が揃わなかった。大根、にんじん、豆腐がダメ(豚肉、ゴボウ、ネギ、こんにゃく、里芋などは揃った)。あきらめて明日にする。その後、大根とにんじんは調達したが、豆腐は難しい。
自宅の水道の勢いが通常と同じくらいになる。市では各地で配管が壊れていることを考え、少しづつ増やしていたのかも知れない。
テレビでは東京はもう回復したといい、スーパーに品物がズラリと並んでいる映像が映されているが、とてもこちらはそんなものはない。隣のコンビニ(セブンイレブン)も全然ものがないし、相変わらずガソリンは全く入ってこない。テレビで回復しつつある、などと言われるのは大変迷惑である。
本日は管総理がこちらに来る予定だったが、悪天のため結局来なかった。それでは、雨はやっぱり危ないのかと思われてしまうのではないか。この地震により、管政権は生き延びたなどといわれているが、こちらにとっては冗談ではない話である。
そういえば地元議員の玄葉光一郎はどうなっているのだろうか?今こそ活躍のときと思えるが・・・。
☆
本日は入荷があまりなく、みんなお昼過ぎには帰るような状況となった。連休のときには普段でもそうだが、クリーニングどころではないのかも知れない。
こういう中で、好調なのはコインランドリーである。地震以降、売上最高値を記録した店が出てきている。断水のため、家で洗えないのだろう。コインを利用していただくのは嬉しいが、現実にはかなり困っている人も多いのではないだろうか?そうなると、困っている人のため、洗濯代行は行うべきであると感じる。
ネットで宅急便がこの辺も復活したというが、アマゾンに本を頼んでみたところ、配送できないとのこと。全く困ったものである。
明日は須賀川商工会議所に行き、無料クリーニングのことを伝えてみたいと思う。須賀川市は明治24年、大火事によってそれまでの繁栄を失ってしまった歴史がある。市内の鉄筋建造物がことごとくダメになったいま、これは明治24年以来の危機ではないだろうか?こういうときこそ商工会議所、青年会議所、ロータリークラブが活躍するべきであると思う。
また、福島県内で移動手段がなくなっている。鉄道は全線不通、高速道路も全部不通・・・。何だかからかわれているみたいにも感じる。これでは経済が停滞してしまうと思うが・・・。一刻も早い鉄道と高速道路の開通、そしてガソリンの通常供給を望みたい。
3月22日
会社で豚汁作る。最終的に豆腐も手に入り、完璧。従業員にふるまう。
本日は事務員が全員揃い(今までは交代で会社に来ていた)、現状と今後のことについて話し合う。当社は須賀川市、郡山市、会津若松市に工場があり、それぞれの周辺に店舗が営業する集中工場スタイルだが、店舗の大半はスーパーマーケットなどのテナントである。そのテナントが地震で崩れてしまった店舗では営業できない(会津は地震被害がほとんどなく、通常営業。須賀川は水洗いのみ開始、郡山は本日ボイラー着火、工場機能戻る。ただし、燃料の不安がある)。
今まで普通に営業していたスーパーも、地震の影響で数店は全く営業していないし、損壊のレベルが高いところはそのまま閉店してしまう可能性が高い。スーパーの建物はたいてい、急に決まる開店日に合わせ、突貫工事で作られているため(会社にもよるが)、そういうずさんな工事がこういう地震のときに現れてくる。売上が高いのに、営業ができなくなる店舗は残念だ。
福島の業者によれば、テナントの中には、今まで営業ができない状態でありながら、復興したかと思うと、「うちの営業時間に合わせてもらいたい」などと勝手なことを言う店長もいるという。どこの業者でもそうだが、彼らの勝手な都合に合わせるのは大変だ。
業務の上では、当面はみんなオシャレするというよりは衛生のため洗濯をするという感覚であるだろうし、必要以上にエネルギーを消費するとボイラーの重油がなくなってしまうと考え、今のところドライクリーニングは行わず、水洗いしかやっていない。今後は水洗いの需要が増えることも考え、現在別の工場で放置されている水洗機や乾燥機を須賀川工場に持ってきて、水洗いを充実させるという案も出ている。クリーニング業者としては、地震を機に原点に戻ったような感覚である。
ボランティアクリーニングに関しては、個人からの申し込みは少なく、もっぱら、リーダー格の人からの話である。まあなんにせよ少しでも役に立つならそれに越したことはない。
他のクリーニング業者はどうなっているのだろうか?あまり話を聞かない。みんな全く営業していないのだろうか?コインランドリーは比較的元気で、ある意味ここが稼ぎどきなので割とやっているが、肝心のクリーニング店がそうでもない。
今回の須賀川市を見ていると、被害の中心は町の中心部が多く、郊外の工業地は比較的健在である。そうなると、建築基準法においても法令遵守の会社は大丈夫で、違法に街中に進出したところがダメみたいだ。火災の危険と合わせ、注目すべき現象なのかも知れない。
本日は自宅の地震保険に関し、保険屋から電話が来た。あまりにも規模が大きく、なかなか手が回らないとのこと。それはそうだろうが、自宅の問題については、このコップが割れた、この壁がはがれたとか、具体的な証拠が欲しいとのこと。そういわれてもなあ・・・。
大地震から10日以上過ぎたが、現在でも一日に何度も余震が起こっている。11日に実際に怖い思いをした女性従業員達は、余震のたびにかなり脅えている。やはり、あの地震は大きなショックだったようだ。
それにしても今日は余震が多い。夜になり、震度4のもあった。いったいいつまで揺れる気だろう。そのたびに、従業員も家族も怖がって表に避難する。夜に余震が来ればみんな起きあがる。従業員もいざというときのため、パジャマを着ないで普段着で寝ていると言っていた。うちも似たようなものだ。
夜になり、ベーコンが少し余っていたので、夕食に一品加えようとジャーマンポテトを作ってみた。単純な料理だが意外と良くできて、子供には大好評。女房にはちょっと悪いが・・・。
地震が来て以来、出張は全くなくなり、夜は飲みにも出ないので、家族五人で夕食を食べる毎日が続いている。家族がいつも一緒にいて、やたらと家族と話す機会も増えた。今夜当たりはどこかに飲みに出てみたい。そう思っている間でも、グラグラ・・・と揺れている。ずいぶんと不真面目な地球である。
夜9時半頃、放射能が心配な小雨の夜だったが、思い切って表に出てみることにした。夜の街がどうなっているのか、興味深かったからである。
自宅から出て歩き出すと、倒壊しそうな市役所を横目に、同じ敷地のすぐ隣にある須賀川市体育館を見る。この中には避難している人がいるが、そう感じられないほど静かである。よくもこんなに静かにしていられるものだとこっちが心配になってしまう。テレビでも見られるといいのだろうが・・・。人はたくさんいるのだろうが、大変失礼だが、生命のパワーというものがあれば、かなり弱くなっている様だ。(注:須賀川市体育館は実際には避難所ではなく、隣にあって地震で倒壊寸前の市役所の代わり、臨時市役所になっていた。このときは知らなかった)
放射能付き雨の影響か、歩いている人はほとんどいない。大通りに行くと、須賀川名物の松明をイメージした街灯が光っている。ほとんどの店がやっていないのに、街灯だけが光り、縁起でもないがお葬式のようだ。私は前からこの街灯にはあまり良いイメージを持っていなかったが(一年中お盆みたいだとか)、こういうときには余計そう感じる。
全く寂しい町並みの中、居酒屋だけは結構営業している。昼間はラーメン屋さんがかなり営業しているが、夜は居酒屋が繁盛するのだろうか?すこし驚いた。
街の中に「B」というスナックがあった。近寄ってみると、何とがれきの山。道路にまでがれきが広がり、完全に倒壊している。ここは須賀川でもかなり流行っている店だったが、もし営業中に地震が発生していたら、人的被害はかなり大きかったに違いない。スナックとか夜の店に関しては、古い建物を改築して作られているところがほとんどで、結果として地震にはもろい。あらゆる業種の中で一番地震の影響を受けるものかも知れない。
こういうスナックなどににキープされていたボトルは、ほとんどが割れてしまった様だ。ホステスさん達にメールしてみると、ボトルの補償はなく、客はまた入れ直すことになるという店ばかりだった。消費者契約法に抵触する可能性があると思われるが、ボトルキープという日本独特の制度自体、どちらにボトルの所有権があるのかはっきりしない。また、地震で割れた自分のボトルを補償しろ、という人もいないだろう。(注:これは、自然災害は店舗側に責任がなく、ボトルの入れ直しはやむを得ないことがあとでわかった)
一軒、営業している店に行ってみた。ここはボトルも割れず、残っていた。店はガラガラで、ホステス達も暇そうだったが、他の客は、やはり夜の連中ばかり。自分の店が営業できないので外で飲んでいるのだろうか?
帰ってきて気が付いたのは、たばこ臭いということ。地震以来、廻りにたばこを吸う人がいなかった。夜の人たちはことごとく、例外なくたばこを吸う。
帰りはタクシーに乗ったが、タクシーはガスなので比較的普通に走っている。市内に通行止めの道が多くなっている。相次ぐ余震で、崩れそうな家が多いためだろうか?
3月23日
昨日も余震が多かったが、今日は朝7時過ぎにいわきで震度5強の地震が2回あった。須賀川でも震度4。このたびに家族が家から飛び出すので、もうウンザリである。夜にもやはり「いわきで震度5強」があった。
本社工場で水洗いに続き、ドライクリーニング開始。わずかながら需要があり、やらないわけにはいかない。
一般の建物以外では、スーパーマーケットやショッピングセンターに地震の被害が大きい。一部の店はほとんどが倒壊し、営業の見込みが立たないほどである。私たちも営業ができなくなるのは大変困ることである。
スーパーにもよるが、特に売上目標の厳しいスーパーは、ずいぶん前から開店予定日を設定し、その予定日をきちんと守って開店するため、 建設業者などにはかなり無理な負担をさせているものと思われる。結果として請負業者は突貫工事を強いられ、こういう地震の際にはその正体が暴露される。あるいは、手抜き工事が行われていたのかも知れない。私たちはテナントに入る業者として、開店日に間に合わせなければならない土建業者の苦労を何度も見てきている。なんだか、小売店側が我々クリーニング業者に低価格と早い納期を要求し、結果として建築基準法違反を始めとする数々の問題が発生したことと、同様の問題を感じさせる。誰もが行き、利用する大型小売店だが、彼らのあまりにも厳しい要求により、我々クリーニング業者だけでなく、様々な業種の人びとが無理、無体な要求をされ、中にはクリーニング業者の様に法律を違反してまで彼らの要望に応える業者が多いのかも知れない。
避難者への無料クリーニングを開始したが、反応は今ひとつ。理由は、やはり下着とかはプライバシーの問題があるので、出しにくいのかも知れない。また、初めての試みなので利用する側もどうしていいかわからないということもあるだろう。
当社営業部長は、「それではコインランドリーを無料開放してみたらどうだろう」と提案してきた。それはいいアイディアなので、推進することにした。
問題は、当社直営のコインは二つしかなく、現在売り上げ好調で有料の顧客が並んでいる状態であること。この地震で大きなダメージを与えた中、コインだけはわずかながら当社を救おうとがんばってくれているのだ。
夕方、営業部長から電話が入り、鏡石のコインのオーナーが無料クリー ニングを了承してくれたとのこと。助かる。行政施設には連絡したので、近々始まるだろう。ガソリンスタンドでは整理券を配っているが、先の無料クリーニン グでは関係のない人まで無料クリーニングを利用したので、その方法で対応したい。
コインランドリーは全国的に経営者自らが集金しているところが大部分ということで、脱税の疑いがあるところがほとんどという大きな問題があるが(要するに脱税の温床であること)、当社にそんなことはなく、むしろ福祉にするというコペルニクス的転回は痛快である。
会社に、他県の訃報が二つ届いていたが、こんな状況では行くことも出来ないし、弔電や御霊前を届けることもできない。
街中のディスカウント酒屋が復活していた。中に入るとものすごいワイン臭。おそらく、たくさん割れてしまったのだろう。床もベタベタする。こういう業種は商品が壊れて大変なのだと思った。
本日のお昼に須賀川商工会議所に行く。かなりの被害を受けた須賀川市においては、すべての中心は市役所というよりも商工会議所である。
会議所の職員は市内の被害を見て回り、写真に撮っていた。店舗を始め、工場なども被害が大きい。ひときわ目だったのは、市内中心部にたくさんあった「蔵」の崩壊である。
須賀川市は明治24年、大火に見舞われ、市街地の大半が焼け野原になったという歴史がある。その結果、隣町の郡山市に翌年から人口が下回り、中心地の座を明け渡したのである(円谷英二の歴史を勉強したときに知った)。その時点で、今後の火事の被害を恐れ、多くの商店主は蔵を作った。それが、今回の地震でほとんど崩壊してしまったのである。100年以上前の建造物が、須賀川市中心部には山ほどあったというわけだ。今後は新しい展開が生まれるかも知れない。
一昨日夕方、福島県内の牛乳と、茨城県産のほうれん草に原発の影響と見られるものが検出されたという報道があった。本日、市内のスーパーを見たら、野菜がほとんどなくなっていた。
野菜も食えなくなるのか!冗談じゃない。管総理は何かとこういう問題 にちょっかいを出すが、ごくわずかな量でどうこういうのはやめて欲しい。平常時と現在とではあまりにも事情が違う。食料など物資が不足しているときに、少しばかりの人体の危険の基準を、こういう被災地に当てはめられたのでは大変迷惑だ!私たちの食料まで奪われてしまう。食料に含まれる微量な放射能は、いつかは私たちの健康被害を引き起こすのかも知れないが、今食えなければ、餓死してしまうじゃないか!
いろんなことがあるので、ずっと自宅にいる割には時間が過ぎるのが早く感じられる。
3月24日
夕べ、群馬県の組合幹部の業者から電話があった。昨日は茨城県沖で震度5の地震があったが、茨城県の業者が、それまで復旧したクリーニング工場の配管がまたダメになったと嘆いていたとのこと。
全くお気の毒な話ではあるが、震度6強の当社工場は配管に関してそれほど損傷はなかった。震度5でダメになるとは、クリーニング関連の設備業者が、どういう配管をしているかは疑問である。クリーニング業者の配管は、以前より機械業者がついでに行うことが多く、安全性には疑問があった。建築基準法問題同様、各業者が業界内の狭義な「常識」にとらわれ、ズサンな配管が行われているようにも思える。
昨日のニュースで、本日より高速道路が回復するといっていた。また今朝はJRの磐越西線が津川から郡山まで通るという。これで、ガソリンや灯油がかなり流通するというので、期待が持てる。久々のいいニュースだった。
今朝も銀行がやってきた。彼らとしては、ここで金を貸せるチャンスと思っているらしい。ビジネスの契機としてとらえているのだろうが、これだけの災害では、もしかすると政府で無利子の貸し付けを行うかも知れない。資金繰りには難しいタイミングである。
昨日の東京都に続き、本日は千葉県で水道水の中から放射性物質が見つかったという。昨日はそんなことでミネラルウォーターが買い占められる事態が起きたらしい。
原発から60キロの所に住んでいる私としては、なんでそんなことで大騒ぎになるのか、と思う。現実の恐怖とか、もっと身近で深刻な問題は山ほどあるのではないだろうか?放射能と聞くだけで、世界中が大騒ぎだ。クリーニング業においては、以前はそこでも使用していたテトラクロロエチレンなど全国で何万カ所もの土壌汚染を引き起こしていると想像される(報道されないだけ)。放 射能だけ大騒ぎするのは絶対おかしい。
それにしても、玄葉光一郎はなにをやっているのだろうか?アメリカに住んでいる私の妹が心配して玄葉の事務所にメールを送り、何をしているのかと連絡したが、秘書から「内容は必ず本人に伝えます」という連絡があっただけで、その後は何もないという。
被災地出身の政治家の中では、今一番責任のある立場にいるはずだ。それなのに、どこにも顔が見えない。
相変わらずガソリン不足が深刻である。当社の各店舗は営業を再開し始めているが、店員がガソリンがなくて店舗まで行けないと嘆いている。街では、やっているスタンドの所に車が数百メートルも並んでいるところを見た。ガソリン不足が理由で店が開店できなくなったのは初めてである。
都会の人には信じられないかもしれないが、こういう地方都市、特に農家など田舎の地域では、成人している人が5人いる家庭には5台の車がある。仕事をしていなくても
車だけは絶対持っている。私は会社で入社希望の人を面接することがあるが、ちょっと前までは、「志望の動機」に、「車のローンを払うため」と平気で書いてくる人物がいた。命の次に車が大切なのである。ガソリンが足りなくなるには、そういう事情もあるのだと思う。
ガソリンスタンドの運営を行っているエネルギー会社の後輩に聞いたのだが、今はほとんどのスタンドが休業していて、たまに始まると、あっという間に長蛇の列が出来上がるが、全く営業していないスタンドで、職員の車に給油していたりすると、たちまち周りから車が集まってきて、「ねえ、ガソリンあるの?」、「営業してるの?」と聞いてくるという。深刻なガソリン不足を繁栄しているのだと思うが、年中スタンドの周りに車でたむろしている人たちは、日頃どんな生活をしているのだろうか?
テナント店舗の中に、小売店側の被害が激しく、営業再開の見通しが立たないところがいくつかある。小売店は売るだけだからいいが、クリーニング店は預かったものは洗ってお返ししなければならない。だから店舗が始まらないと返すこともできない。近隣に当社の店舗があるときには、商品をそこに写して張り紙をしておけばいいが、近くにないときには大変困る。前にも記載したとお り、スーパーは意外と安普請で、地震被害を多く受けている。これも困った問題である。
本日より高速道路開通ということで、早速高速道路を利用してみた。須賀川-矢吹間と短かったが、久々の高速道路だった。
高速道路も被害がかなりあり、ところどころ道路がひび割れており、いつものように快適な走行はできなかった。それもあってか走っている車もみんなゆっくりで、道路も80キロ規制がかかっていたが、みんな本当に正直に80キ ロで走っていた。それから、どういうわけか運転手に高齢者が多く、どの車にも老人マークが付いていた。
走って危険というレベルではなかったが、普段の高速道路にはほど遠い乗り心地だった。
震災の被害が大きい矢吹町でも、100円ショップ、郊外型ドラッグストアなどが開店していた。100円ショップは生活用品を買う客でかなりの混雑ぶりだった。品揃えはたいしたもので、ほとんど被害がなかったみたいだ。無料クリーニングで使用するかも知れないクリーニングネットを40枚ほど買い込んだ。
ドラッグストアは昨日の酒屋同様、地震によって棚から栄養ドリンクなどが落ちて散乱し、それらしい臭いがしていた。どうやら落ちたもの を片づけきれなかった様で、落ちたものは集められ、籠に入れたまま販売されていた。そういうものがかなり見受けられた。パッケージが汚れた商品などは、 100円引きになっていた。
生活用品を数多く扱う100円ショップ、ドラッグストアはこういうときに重要である。スーパーとかよりは建物もしっかりしているようだし、なんでもっと早く開店しないのか、と思っていたのだが、商品が細かすぎて地震でバラバラになっていたのだった。一生懸命掃除して、品を揃えたのだろうと考えると、さすがに頭が下がる思いだ。
そして、両店とも、カップラーメンの棚は既に売り切れとなっていた。地震発生以来、これだけはどこへ行っても大人気商品である。
明日は給料日だが、時給で計算されるパートタイマーの場合、被災によって店舗や工場が休み、実質的な給与はいつもの半分くらいになってしまう。
そこで、今月分(1月26日~2月25日)に関しては、全壊の給料と同等の支給を行うこととした。震災で被害を受け、給料半分ではやっていけないだろうという判断である。
昨日商工会議所で聞いた話では、いったん退職させるか、休業扱いにして失業手当を受け取るという方法もあるらしい。そういう面倒な手続きまでは、現在の当社では必要がないと思われる。
追記・・・給与に関しては、特に同業者において、いったん退職させるという手段を用いた会社がいくつかあった。いろいろ事情はあるのだろうが、地震でパニックになっている従業員に、辞めてくれというのはひどいと思った。
市内の居酒屋がやっていることから、今夜は家族五人でチェーン店居酒屋に出かけてきた。豊富なメニューは全て完璧、こんなときでもちゃんと営業しているのは大したものである。聞いてみたら、やっと昨日から通常営業できるようになったとのこと。みんな必死で復興しようとしている。久々のごちそうに家族は大喜び。物資不足の中、なぜこんなに充実した食材が出せるのだろうか?出張中などは居酒屋に行くこともあるが、家族とは非常に珍しい。自宅から歩いていけるところに何軒もあり、有効に活用すべきだったのかも知れない。地震になって気がついた。
これでみんな気がゆるんだのか、今までにないリラックスぶりだ。日本のバンド、バンプ・オブ・チキンの「花の名」という曲を、テレビに映るPVに合わせ、妻はギター、娘はキーボードで演奏する熱演ぶりだ。今までが緊張の連続だったのかも知れない。実際には余震や原発の問題があり、まだ油断はできないが、家族はかなり安心したようだ。
夜になり、大学時代の先輩から電話が来た。昼は昼で同業者から電話が二軒。みんな心配してくれるのでありがたいが、どうも原発の問題を私の地域だと思っているようだ。福島県は47都道府県で3番目に広い。私たちは内陸部でここから原発の間には阿武隈山地もある。福島県=放射能では、これから困るだろう。こういうのを風評被害というのではないだろうか。
町の建物には、ところどころ赤い紙が貼られている。これは、市が認定した危険建造物、まもなく取り壊される予定の建物である。街中にこういうのがたくさんある。古い街が、完全に崩壊しようとしている。
須賀川市はかつて、大きい地震が来ない街といわれ、地震保険が日本一安い街などとも聞いていた。それにより、火災保険に入っても、地震保険までは加入していないところが多かった。今回の大地震は、そんなこっちの「勝手な理屈」をすべてはねとばしてしまった。
しかし、負けてはいられない。当社は明日、まずは鏡石町役場に出向き、避難している方への無料コインランドリー利用のための整理券を持って行くつもりだ。コインランドリーを無料開放は前人未踏の思い切った試みだが、困っている人たちのためにも、ぜひ成功させたい。
で、まだ揺れている。
3月25日
最近の気候は、昼間はだんだん春の日差しが強くなり、暖かくなってきているものの、夜間や朝方は気温が零下になる日もあり、かなり寒い。もはや換気扇やエアコンなどは当たり前に使用するようになってしまった。この辺ではもはや、大気中のことなど心配する人はいない。それよりも今の生活を支えることだ。
本日は午前11時にすぐ近くの避難所、須賀川アリーナへ無料クリーニングの集荷があった。不調と聞いていたが、だんだん出す人がいて、増えてきた様だ。私も配送員と一緒に行ってみた。
アリーナの中に入ると、避難している人たちがそれぞれめいめいに自分の場所を作っていた。午前11時だが大半は寝ていて、横に車椅子などがある人もいた。
最初、このボランティアクリーニングは、それぞれネットに入れてもらい、個別に預かる予定だったが、ネットが足りない上、ネットにぎゅうぎゅうに詰められた衣服は洗うことはできても乾燥にすごく時間がかかり、効率が悪い。そこで、避難所の隅に顔をいくつか置き、後は自己責任でやってもらうことにした。行政の管理者が見てくれている。
最初はなかなか対応がうまくいかなかった管理者も、だんだん慣れてきたようで良かった。明日からのコインランドリー無料、さあ、どうなるだろうか?何かの事情でクリーニングを無料サービスしたところは当社を含め今までもいくつかあっただろうが、コインランドリー、現時点では脱税の温床のようなこの仕事において、無料にした人はただの一人もいないだろう。その点が大いに注目される。
本日、会社に週刊金曜日が郵送されていた。全くありがたい。郵便も徐々に回復している様である。やはり原発を厳しく批判している。コンビニに行ったら、コンビニ定番の東京スポーツが久々に置いてあった。東スポも復旧したか!と嬉しいが、週刊金曜日とは対極にある、俗物の固まりの様なこのスポーツ紙でさえ、1,2,3面を地震と原発事故で記事が埋まっている。プロレスも野球も後回しだ。
東京スポーツでさえも、この問題を真剣にとらえ、原発への批判を強めている。今まで日本の繁栄の甘い部分だけ享受してきたような、この新聞がそうなのだ(もっとも、私は35年以上この新聞を愛読しているが・・・年数で朝日新聞を上回る)。これでは、原発を肯定する人なんていなくなるのではないだろうか?
東京スポーツでもう一つ。アントニオ猪木に出てきて欲しい。イラクや北朝鮮に飛び出していった猪木なら、福島県浜通りにリングを置くくらいのことはしてもいいのじゃないのか?私が子供の頃、最高に憧れた、アントニオ猪木登場に期待したい。(注:期待に応え、あとで登場した)
いつも本やCDを買うときにアマゾンを利用していた。私につられ、家族もそうだったが、いろんな流通がだんだん回復しているのに、本日のアマゾンHPでは「福島だけダメ」だった。すごく失望した。
ロータリークラブ関連で、台湾から電話が来た。台湾の人たちは、昔は日本だったので年配の人たちは流ちょうに日本語を話す。しかもウーロン茶や漢方薬を飲んでいるからだろうか、年配の方々もすごく元気である。今回の地震を心配して義援金を送ってくれるというのだが、「日本人は辛抱強いから、すぐに復興するでしょう」と、かなり楽観的な意見をもらった。昔の人たちは、日本人ってすごくたくましいと思っているのだろうか?
昨日やっと復活したディスカウント酒屋に寄って炭酸水などを買ったが、カップラーメンが置いてあるのを見て買おうとしたが、「一人3つまで」とのこと。地震でカップラーメンの価値がすさまじく上昇したと思う。
やや不謹慎だが、酒屋が復活すると酒が飲めることが嬉しい。今までは自宅に割れずに残った酒をチビリチビリやっていたのだが、酒屋には、きっとひどい被害を受けたのだろうけれど、自分が好きな酒が飲めるのは嬉しいことだ。好きな音楽を聴き、好きな酒を飲めるだけで嬉しい。ワインを飲みながら(勿論、安いワインであっても)、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」を聴ける喜びに浸っている。上から落ちたボーズ・スピーカーがタフで、ちゃんと鳴ったことも嬉しい。
本日は夕食に、昨日買ってきたパスタのソースをベースにスパゲッティを私が作ったが、家族がみんなペロリと食べてしまった。今までは寝ていたりして家族がみんな揃うことは少なかった。なんだか軍隊みたいに(そういう経験はないが・・・)あっという間に食べる。食事は楽しむものではなくなった感覚である。地震が来てから変わったことである。
本日は比較的余震が少なかったが、それでも、ちょっと強いのは二度ほどやってきている。ポイントとしては、ゆっくりとグラグラしてきて、だんだん強くなってきたら警戒だ。
夜になり、なんと大粒の雪が降り、周囲を真っ白に染めた。クリスマスのような光景だ。普段であれば、きれいな雪景色ということになるのだろうが、この雪の中に放射能が含まれていると思うと・・・ウンザリである。放射能雪か。また、これだけ寒いのでは、被災している人たちはたまったものではないだろう。
私は原発について、日本の産業を支えるためには・・・やや容認という意見だったが、こんなひどい目に遭ってから、当然考えは違う。これでは全てが失われてしまう。生まれ故郷がすべてダメになった人も多いだろう。天災ならあきらめもつくかも知れないが、これは紛れもない人災だ。もしかしたら、50年も生きたこの世界から離れていかなくてはならない。やはりこれは、あるべきではない。何か別の方法を真剣に考える方がいい。
会社のことも心配である。ほうれん草や牛乳は国家によって保証されるのだろうが、クリーニングの売上ダウンが保証されるようには思われない。せいぜい、利率の低い貸し付けくらいしか望みがない。そういう中で、また会社をやっていけるだろうか?客は戻ってくるのだろうか?すごく不安である。
放射能が混じっているのかも知れない雪景色を窓から見ながら、今日が終わっていく。
3月26日
本日は取引スーパー鏡石店のコインランドリーで、鏡石町に避難している人たちにコインランドリーを無料開放するという前人未踏のボランティアを行った。
「前人未踏」と言ったのは、郊外型の大型コインランドリーは平成7年頃から全国に急速に広まり、全国に何万軒もあるが、おそらく、ただの一度も無料開放などした歴史がない(だろう)からである。
避難所向けに行ったボランティアクリーニングは、プライバシーなどの問題があり、現時点でそんなに普及していない。しかし、コインランドリーを無料開放というのであれば、希望者は出てくるに違いない。
ただコインを解放すると誰でも来てしまうので、避難所の管理者に整理券を配り、希望者に来てもらうことにした。指定された午前11時になると、車で二人でやってきた避難者がいた。
コインランドリーは、あまり知られていないだろうが、実は脱税の温床になっている(勿論、私はやっていない)。集金がほとんどオーナーがやっているし、明確な売上がわからないからである。そういうコインで無料サービスをするというのは痛快だ。勿論、当社は自社物件もオーナーがいるところも含め、集金は店員が行い、料金のカウンターも設備されているので、その様なことはな い。
併設クリーニング店(当社の店)の店員(コインランドリーのメンテナンスも行う)がコインランドリーの洗濯乾燥機のうわぶたをカギで開け、無料でできるようにスイッチを入れたときは何だか緊張した。あくまで自分の中での話だが、これは「歴史的瞬間」であるからだ。
当社のコインランドリーは、クリーニング店と併設している。この地震被害の中、店舗で受付をしているMさんという店員は、4月に結婚式を予定していて、式場も予約していたのに、この地震によって中止になってしまったという。「とんでもない思い出になってしまいました」というMさんだが、せめて手作りの披露宴をやってあげたいものである。市内の式場という式場は全部ダメ だ。では公民館当たりで・・・。ウェディングドレスは教会から借りて、やってできないことはないだろう。そうなると、私の役目はコックさんになるだろう。 当社は女性従業員が多く、以前は新卒者を多く向かい入れていたことから、新譜側の挨拶をすることが多かった。格式張った披露宴ではなく、手作りのものをやってあげたいと思う。
ボランティアはいいのだが、この地震によって予定されていた売上とかは全く狂ってしまった。午後、郡山の会計事務所に行き、今後の資金繰りについて相談した。各銀行は災害向けの融資をすぐに行ったようだ。社長としては、厳しい現実も待っている。
帰りに郡山市の「T」というディスカウントストアーに寄った。久々の開店だったらしく、大盛況だった。
高々と積み上げられたカップラーメンは一人当たりの制限もなく、買い放題。値段も安く、品数も豊富だ。しかし、牛乳と水は一人一本の制限あり。こういうとんでもなく安い店に来る客でも、水には気を配るのか・・・風評被害というのは恐ろしい。
県内のテレビでは、何ら心配ないというものばかりである。そこへアナウンサーとかが「本当ですか?」と突っ込みを入れる。学識経験者の楽観論をアナウンサーが不安視させる展開がどこのチャンネルでもやっている。どっちが安全なのだろうか?
須賀川市体育館、須賀川アリーナなどの避難所では、夕方になると夕食 がでるが、なんと普通に家に住んでいる人の中に、この夕食を目当てに避難所に行くらしい。ちゃんと点呼をしているわけでもないので、やってできないことは ないだろうが、あまりにもプライドのない行為である。
周りの海水から、高濃度の放射性物質が検出されたと言っている。原発は本当に良い方向に向かっているのだろうか?次々新しい問題が起こるので、全く落ち着いていられない。
会社にお見舞いが届いていた。全国クリーニング協議会から小切手、弘前、広島の業者から現金だった。こういうのって、お返しとかあるのだろうか?病気だったら快気祝いというのがあるが、原発はいつまでも冷めず、本当に厄介だ。
夜になって、飲みに出かけた。市内にあるバーだが、ちょっと一息ついたのが良かったのか、コインランドリーの無料開放が嬉しかったのか、久々にかなり酔っぱらった。
3月27日
本日は日曜で、工場もやってないので、家にいる(普通は日曜も稼働するのだが、品数も少ないため休業である。)。地震発生以来、仏壇のある座敷がいざというとき玄関に近く、家族がみんなそこにあるコタツに入っている。今朝、その部屋を見てみると、私以外の家族4人がコタツの4つの角にそれぞれ座り、全く無言でいた。地震になって家族が一緒にいるときが多くなってはいるが、会話も少なくなっている。
今夜はピザを作ろうと思い、強力粉にふくらし粉や砂糖、塩、水などを混ぜ、こねておいた。
地震が起こる前、予備校生がヤフー知恵袋を使ってカンニングするという事件が起こった。そのヤフー知恵袋の中に、「くらしと生活ガイド」があり、またその中に「洗濯・クリーニング」がある。誰かが何らかの質問をすると、誰かがそれに答えるという仕組みだ。クリーニングに関するものでは、細かいしみ抜きなどに関する質問には、「カテゴリーマスター」と呼ばれるその道の専門家がすぐに回答している。しかし、どうもそういう人たちは、みんな技術を売りものにする個人業者が多いようだ。技術論に関してはすぐに回答が来るが、大手の業者に関する質問や、○○県○○市に住んでいるが、いいクリーニング店はどこか、などという広義な質問には誰も回答しない。いわゆる「大手」的な回答者が存在しないので、私がこれに参加する価値は充分にある。既に何度も一番良い答えに質問者が付ける「ベストアンサー」に選ばれている。
しかし、原発事故以来、多くなっている質問は「洗濯物を外に干しても放射能はつかないか」、「水道水で洗って大丈夫か」など、放射能に関する心配が非常に目立っている。それも、ここからはるかに遠い大阪とかの人まで心配している。愕然とする。
相馬市の市長が、「籠城」を宣言している。全く同感である。生まれ育った自分の街を離れることは難しい。相馬市長は、「国が出て行けというまで留まる」と言っているが、私は国が出て行けと言われても行きたくないくらいである。
他の街で、いったい何ができるというのだろう。天災ならあきらめもつくが、原発などという人為的な災害で自分の街を離れるのはイヤだ。広島や長崎だって人が住んでいるだろう。
私はこの街に生まれ、この街で育ってきた。いなかったのは大学時代に東京にいて、最初の就職で青森に一年間、会津工場立ち上げで3年間だけで、大半をこの街で過ごしている。50を過ぎ、今更引っ越しはいやだ。これは多くの人たちがそう思っているだろう。
原子力は「二度と炊いては行けない火」として、歴史に残るのだろうか?
アマゾンが復帰した。外資系は極端に放射能を怖がるのかと思っていたが、それなりにがんばっていたようだった。私は手書きの日記とCDを注文した。
沈滞する気持ちを何とかしようと、夕食にはピザを作ってみた。このくらいの材料は揃う。
夜になり、高校の同窓生から「私の意見を聞いて下さい」というメールが来た。
福島原発事故の収束のビジョンが示されてないことに地元民はおびえています。
3月11日、本来ならば大地震が起きても絶対に安全だと我々に謳ってきた「緊急炉心冷却システム」も
津波被害による停電で作動不全に陥り、その後「建屋爆発」「使用済み核燃料プール損傷」「放射能飛散拡大」と
次から次と事態は悪化。
18日東電常務が福島市を訪れ、事故発生から1週間を過ぎようやく「廃炉を検討する」とコメントしました。
まさか事故炉が暴走する中、東電は事故炉の温存を図ったため、有効な手段をとれないでいたのでしょうか。
「想定外」の震災と津波とはいううものの、あれほど安全を標榜してきた原子炉が制御不能となったこと、それでもなお
自社の利益の保全を優先してきたことこそ我々にとって二重の「想定外」です。
本当に、今の放水を続け原子炉を冷やし続けるだけで事態の収束があるのかはなはだ疑問です。
それは電源回復がなった今でも、健全なポンプシステム稼動がかなり困難なことが伝えられるからです。
ここで、国際原子力機関、アメリカ専門チーム(国家核安全保障局)などに技術協力を要請し直ちに原子炉の沈静化をすることはできないでしょうか。当事者だけでなく、我々にもその具体的な方策を公表頂き、事態収束を安心して見守りたいと考えます。
加えて、被災者に対し、国や東電ではなく第三者機関による国際的に支持された汚染レベルをもとに避難、退避指示がなされないのでしょうか。「原発から何キロ」と同心円の境界に地元は大変混乱しています。
さらに心配なのは、今後生まれてくる子供のことです。低レベルとはいえ放射線に被曝し続けることが生殖細胞に与える
影響は全くないのでしょうか。これも専門家のコメントが欲しいところです。
「直ちに健康被害はない」というコメントはもういりません。事故原子炉を「直ちに沈静化する」ことを国と東電に強く望みます。
東北人の我慢強さも、もう限界にきています。
3月28日
今朝方、宮城県沖を震源とするマグニチュード6.5の地震があった。余震とのことだが、どうもいつも、揺れの激しい地震は朝方に起こっている。地震によって目を覚まされている感じだ。
地震と原発が話題の中心になり、他のことに頭が回らないが、もうすぐ4月なのに、嫌に寒いのも気にかかる。毎朝気温はマイナスである。被災者はたまらないだろう。
本日は昨年オープンしたばかりの業務用スーパーが営業していた。こういうご時世には、まとめ買いできるこのスーパーこそ最高のものだが、なかなか開店しなかった。ところが、中で人がいて、「ありがとうございます!」などという声が聞こえるのに、二つある入り口が両方とも閉まっている。いったいどういうわけかと思ったら、入り口が壊れてしまい、倉庫から入ってくれとの張り紙があった。というわけで横の狭い通路から中に入り、買い物をする。食料品店はライフラインとして貴重だが、どこも妙に安普請である。困ったものだ。ここは店舗が小型で、クリーニングなどのテナントが入っていないが、テナントはスーパーの閉鎖に否応なしに付き合わされるのだ。
ネットで地震関連のニュースを見ていると、救援物資があっても、それらが円滑に避難所に届かないという問題を取り上げていた。それは、こちらでも十分に感じている。
避難している人たちは大変でしょうから無料クリーニングを請け負いますよといっても、たいていは市役所などの職員がやっていて、そういう臨機応変の対応ができない、申し出ても、担当者が日替わりで交代するので、次の担当者に引き継ぎがなく、同じことを何度も言わなくてはならない、担当者も実に嫌そうな顔をしてこちらの話を聞いている・・・。よく昔はダメな仕事のたとえとして「お役所仕事」などと言ったものだが、それがそのまま現場でやられている。急なことで、実際みんな大変なのはわかるが、ちょっと困ったものである。
私の街、須賀川市は地方としては人口8万ぐらいの街だが、今回の地震に関しては、隣町の郡山市よりはるかに被害が大きかった様だ。特に中心部の家屋や店舗がガタガタになっていて、かなりの家で、人が住めなくなっている。須賀川市は福島県の中通りという内陸になる土地であり、津波の被害は全くない。そうすると、地震の被害だけでかなりのダメージを負ったことになる。郡山市と比較して街が古く、中心部に蔵がいっぱいあり、それらがことごとく崩れたので、余計にダメージを感じる。
とにかく現時点では建物がかなりやられているので、大工さん達があちこちで一生懸命復旧の努力をしている。その中には若い人も多く、こんなに大工さんや設備屋さんがいたのかと思えるくらい活躍している。若者が一生懸命努力しているようで素晴らしい。土木建築業はどん底だったというが、こういう人たちががんばれば、意外と復興は早いのかも知れない。
原発反対宣言
商店主達も当然復興へ向け努力しているのだが、意外にも、彼らの口から原発の心配は出てこない。須賀川市は第一原発から60キロ弱くらいの所であり、決して今後も安全というわけではないのだが、それでも原発の話がない。
それは、地震からの復興に必死なので、原発まで頭が回らないというのが本音なのだと思う。古い街なので、若い世代も昔から残る格式に縛られ、そこから出ようとしない。また、良い意味でも悪い意味でも街の結束力が強い。先祖代々の家や町並みが破壊されたのはかなりのショックである。だが、原発の状況に言いしれぬ不安を感じていることも事実。もし仮に、こういう人たちに「放射能の影響があるから街を去れ」と言ったらかなりの混乱が起こるだろう。私自身も、それは何としても避けたい。要するに、これ以上の災難には触れるのもイヤなのだ。
平成元年頃、テレビで東京電力主催の番組があり、人形劇で原子力発電所の安全性をしきりに訴えていた。原発に対する反対運動は時折起こっており、そういうものを牽制し、福島県民に安心感を植え付ける狙いがあったのだろう。手で動かす人形が「原子力って安全だね!」と何度も叫ぶように主張する姿はヤケに空々しく、これではかえって逆効果なのでは、と思えるほどだった。こんな番組ほどではないにせよ、自分が子供の頃から原発はその動きが度々不安視され、危険なのでは、と思わせられることは多く、そのたびに誰かが登場、原発の安全性を説いていた。将来的なエネルギー確保の方法として、これしかないのであれば仕方がない、とも思った。
この様な問題が起こるまで、私も、そしてこの地域に住む周りの人たちにも、原発は危険であるという認識がほとんどなかった。何か人ごとのように感じていた。偉い人たちがやってるんだから大丈夫という、今にして思えば無邪気な楽観視があったと思う。
今回の事故により、いろいろな学者が出てきて原発の構造について詳しく説明し、そのメカニズムについて何度となく解説している。燃料棒というのは一万年も冷めないということを初めて知った。要するに、そんな危険なものがすぐ近くで動いているにもかかわらず、その構造すら知らなかったのである。自分が危険であると知り、初めてその構造がわかったのだ。これは、あまりにも遅 かった。
しかし、安定した日常に住む一般の人々は、一歩間違えれば奈落の底という原発を何十年間も容認し、そこから供給される電力によって快適な生活を送ってきたのだ。何か起こらないと、その怖さがわからなかったのである。はるか前より原発に反対していた活動家の方々に、申し訳ないような気分である。
大自然のいたずらにより、いとも簡単に地獄に落ちるような設備は、やはり止めるべきだと思う。毎日毎日新たな問題が発生し、ああこっちから煙が出た、今度はこっちからだ、などという話に怯えている毎日では生活にならない。地域への救いようのない汚染、深刻な経済的打撃、そして、ただでさえ避難している人々がいるところへの精神的な圧迫、不安感は、もう計り知れない。一刻も早く原発を止め、新たなエネルギー源を模索し、また省エネ策を考えるべきである。快適な生活と引き替えに、いつかは破綻する運命というのであれば、代償が大きすぎるのではないか。
多分もうそんなことは、専門家にとっては周知の事実なのだろうが、もし戦争になったら、戦術はただ一つだ。相手国の原子力発電所をミサイルで攻撃すればいい。ひとたび原発にミサイルが命中すれば、相手国は何年、何十年と苦しみ続け、住民の不安が高まって暴動化するかも知れない。国家は壊滅するだろう。これ以上、効果的な攻撃方法があるだろうか?
ましてや、福島原発は東京電力の所属。東京都に電力を送るため、200キロ以上離れた福島県で稼働している。我々福島県人は、「そんなに安全というなら、東京湾に作ればいいのに・・・」という言葉を何度も聞いてきた。結局は「危ないから」、わざと遠くに作るんだろう。大人しい福島県人なら何も言わない、いざ危険が迫っても東京ほどは人が死なない、だから福島県に作るのだろう。「なんで東京の人のリスクを福島県民が背負わなければいけないのか」という言葉は、私たちの間でタブー視されていた。しかし、ここ最近は多くの人びとから聞かれるようになった。ストレスや不満は日ごとに高まるばかりである。この様な状況は、米軍基地のある沖縄と似ているのかも知れない。
3月29日
今日は須賀川市の大桑原(おおかんばら)で、農家の人が自殺したというニュースから始まった。育てていたキャベツが原発放射能の影響で出荷停止になり、悲観した様である。原発の最初の犠牲者が須賀川市から出た。
放射能という、須賀川市民にとっては未知の敵を迎え、心配してしまったのだろう。特にその人は、無農薬野菜などの開発に熱心で、学校の給食食材にも自分の野菜を供給していたのだという。いくら無農薬でも、そういうものをあざ笑うように核物質は降り注ぐのだ。本当に嫌な話である。
本日は参議院予算委員会があったが、「福島第一原発を廃炉にするか」という質問に対し、菅首相は「専門家の意見を聞いて決めるが、その可能性は高い」と答えている。冗談ではない。これだけ迷惑をかけられて、地元民がこれからも続けて下さいというと思うのか?「廃炉で当たり前だ」となぜ言わない?「福島県民には、これからも犠牲になってもらう」とでもいうつもりか?勢いだけで奪った政権にとって、きっと原発の問題なんて、後で何とかなるさ、程度にしか考えていなかったに違いない。与党議員が、非常時になると青い作業服みたいなのをみんなそろって着ているのも空々しい。
午前中、会社に当社メイン銀行の担当行員がやってきた。地震で下がった売上を補填すべく、融資の相談に来たのである。
彼の口からは、地震における 様々な経営者の対応が述べられた。従業員にこれは大変と厚遇する人もいれば、さっさとこの地を離れ、逃げる人もいるという。銀行員はそういう経営者の態度 をいつも見ているのだろう。しかし、逃げたヤツがいるというのはひどい話だ。従業員を放り投げて逃げたのだから。
午後1時から商工会議所で震災後初めての会議があった。1時から庶業部会、2時から通常議員総会だった。
庶業部会では各委員が震災に よってどのような被害を被ったか述べられた。ゴルフ場支配人は「この地域のゴルフ場は被害が大きく、半年以上は営業不可能、いわき地区は完全に終了している。従業員はみな解雇した」と厳しい現実を語り、固定資産税の減額を申し出た。スイミングスクール経営者は「配管が破損し、プールの温度が上がらない。A重油の確保は大変だ。4月分の月会費をもらわないことにしたため、資金繰りが大変」と述べた。人材派遣業者も、「製造業への派遣は機材が被害を受けていて休み、雇用調整金の支給を受けられるようにしている」と対策を述べている。どこの業種も大変である。行政からは、小規模豪奢への救済措置はたくさん来ているものの、従業員100人程度の中規模業者が救済されないということである。事業主から、ポンポンと「解雇」という言葉が飛び出してくるのが痛々しい。
議員総会は、本来はホテルで行われ、終わった後は懇親会が行われるものだが、こういう事情をふまえ、商工会議所で行い(もっとも、ホテルは地震被害で閉鎖されている)、懇親会もなかった。それでもいつも欠席の人たちも来て、会場は満席となった。須賀川市の名だたる財界人がほぼ全員出席していた。地震の問題が深刻であり、商工会議所に集まりたかった人が多いことがわかる。しばらく休会だったロータリークラブも別の会場で役員会が行われていた。
通常の予算審議などが行われた後、すぐに地震の話題となり、議員にアンケートを採って状況を把握し、対策を考えることとなった。現実の被害状況として、市庁舎、各地の小中学校、税務署など行政機関がかなり被害を受けていることがわかった。中国の四川大地震の際は行政の建物がピンピンしていて民間がダメだったが、須賀川では逆だったわけだ。商工会議所のホールを、税務署が一年間借りるということである。
私は、「現実の問題として、一番心配されているのは原発問題である。商工会議所はこれにどう対処するのか?」と質問した。
会頭は、「原子力の問題は、皆目どうしていいかわからない。国からの情報が全くない」と、行政を通じての情報がないことを明らかにした。テレビから出てくるような情報が、正式な形でこういうところには届いていないということである。「そういう方向に行くのかさっぱりわからない」とも言われた。
ここで前商工会議所会頭の近藤氏が、「私のところの鉄くずが(この方はスクラップ業者)、新潟に持って行ったら福島から来たというので断られてしまった」と発表し、鉄くずのようなものでもそういうことがあるのかと、皆がどよめいた。
福島ブランドは、いろんな分野で問題が起こるだろう。製造業は、今持っている部品ですら危ない、という人もいて会議は急に活発になった。やはり原発は、みんなが恐れていた問題だったのだ。
参加者が次々と発言を始めた。国は対策を示して欲しいと、国の無策を批判する人、よほどひどい状況にならないといわないだろうと、国が隠蔽していると疑う人、中性子が飛び出したらおしまいだと、博識な人、「国としては国民全体の福島県の人口比はせいぜい2%、そのくらいの犠牲は仕方ないとあきらめるだろう」と極端な悲観論を言う人、いろいろである。地震対策で大変でありながら、その後ろにある、もっと怖い問題があからさまになり、みんなそれを言い出した感があった。本当は、誰もがそれを言いたかったのだと思う。
会議所は、もっと会員のことを考えてがんば れ、という意見もあった。いつもはナアナアで終わる須賀川の会議が、深刻な事態によって団結し、まとまった様な気がした。町おこしのことばかり言ってい て、現実にはなにもできなかったこの須賀川市だが、まれに見る大きな地震と日本の歴史の中で初めて起こった核の恐怖により、久々に充実した会合になったよ うな気がしたが、それは、事態が深刻であるからである。
地震があると、いろいろなことがある。私の部屋の棚の奥にずっとしまわれ、全くわからなかったカセットテープなども、強烈な揺れのおかげで飛び出してきた。聞いてみたら、学生の頃の学生プロレス実況中継だった(1981年盤)。昔はあんまりビデオが普及せず、カセットで録音していたのだ。勿論、自分も出演している。
今どきはカセットプレイヤーがあんまりない が、かろうじて見つけたもので聞いてみると、音もかなり良く、プロレス大会の実況が蘇ってくる。こういうことをよくやったものだ。1981年だから、もうこれから30年が過ぎている。この大会で私はレスラー兼プロデューサー兼実況中継の解説という厳しいスケジュールであり、終わった後は完全燃焼し、うちにも帰れず部室(アパートを借りていた)でぶっ倒れ、翌日を迎えたものだ。当時の情熱はすごかった。
こんなパワーがあればこの様な危機も、乗り越えられるかも知れない。とんでもない品が出てきたものだ。なんだか嬉しかった。
夜になっても、マグニチュード6.4なんていう地震が来て、ぐらぐら揺れた。二階から下に行くと、家族が外に出ていた。いつまでも、収まらないものだなあ。
3月30日
本日朝、ガソリンスタンドを見てみたら、当たり前のように値段表示されていて、誰も並んでいなかった。行ってみたら(セルフだったが)普通に入れられた。昨日はものすごい列になっていたのに・・・。この騒動は、急に終わったのだろうか?
緩やかに収束するならわかるが、急に大丈夫になるものなのか?先週から高速道路が開通し、磐越西線で郡山まで燃料が運べるから、とやや安心できるムードがあったものの、昨日までは営業しているスタンドは相変わらずすごい列だった。突然大丈夫になるものだろうか?あっけない幕切れに不思議な気持ちだった。11日の時点で結構あったガソリンを大切に使った私は、結局一度もあの列に並ぶことはなかったということだろうか。
鏡石にある店舗に行ったら、思いがけず一般クリーニングが集まっているのに驚いた。地震の影響で売上はガタガタ、どうしようもなかったのに、今頃になってたくさん出ているのだろうか?ちょっと暖かくなって、冬物を出す人が出てきているようだ。避難している方もいるらしい。店員からその話を聞いて、お客様に深々と頭を下げまくった。「社長です、ありがとうございます」。
本日は須賀川アリーナに無料クリーニングの様子を見に行ったが、アリーナの玄関にき然として座っている二人の人がいた。てっきり案内人だと思っていたら、郵便局の人なんだという。礼儀正しい姿は素晴らしい。アリーナの収容避難民はだんだん減っていて、もっと遠くに行った人が多いそうだ。
業界紙Aの最新号が会社に届けられていた。話題は震災被害だが、当社のことも記事になっていた。それを見てびっくり!
「セルクルは工場や店舗が被災し、目下福島第一原発の放射能汚染に脅かされているが、須賀川市と郡山市で避難所生活を送る地元民の洗濯物の無料クリーニングをスタートし、避難所への出張クリーニングも相談に乗っている。また、同社コインランドリーは全店で営業中」
放射能汚染に脅かされているとは何事か!実際に双葉町、楢葉町、大熊町などのクリーニング業者などもいるし、原発からの距離では郡山市、白河市などにもたくさんの業者がいるのに、何だか当社だけが原発被害を受けているような書き方だ。また、工場や店舗が被災し・・・は余計なお世話である。近隣地域ではどこよりも被害がないし、現在も営業しているではないか。
まるで、被害に遭ったのが嬉しいかのような書きぶりである。
この業界紙Aは、一昨年不正で摘発されたR社の提灯記事を連発しているところである。クリーニング業界紙は3紙あるが、Bは二年前に「私たちは提灯記事やめました!」と宣言し、Cは、「R社の社長は業界紙3紙を並べ、札束を見せてこの様に書いてくれと言われたことがある」と暴露、断ったそうである。この様に提灯記事が当たり前のこの紙面だが、R社にとって、不正を摘発した当社は憎たらしいはず。それでまたRに頼まれ、風評被害を狙っているのだろうか?大変腹立たしい話である。
一般のテレビ局は地震関連のニュースばかり報道しているが、CSはずっとマイペースで映画とか放送している。今日は夕食の時間、昭和28年の「蟹工船」がやっていた。これは、たまたま日本映画専門チャンネルでやっていたから見たのである。
こじつけみたいだが、ちょっと私たち福島県民の姿と似ている気がする。原発問題が起こり、たまらなく不安な日々を過ごしているのだが、ここからは逃げようがない。
実際、この地を離れている人もいることはいるのだが、知っている人で避難しました、などという人は一人もいない(逃げたのは、他から来て開業した医者とかばかりだ)。強制退去とでもなれば話は違うが、古い歴史のあるこの街の場合、逃げるに逃げられないし、他の人もみんなそうだろう。全ての財産を失って他で暮らすことなんて不可能である。逃げるに逃げられない点で、船に乗ってカニを捕らえ、缶詰を作っている蟹工船と同じである。ただ、敵は映画の中では強欲な経営者や現場監督だが、私たちの場合は危険なのかという質問をノラリクラリとかわす東電幹部である。
本日は不在の社長(海外メディアでは逃げたといわれている)に代わり、かなりおじいちゃんの会長が登場してお詫びし、「まだまだ時間がかかる」と絶望的なことをいわれた。じいさんが謝ったから許されるというわけではないだろう。東電は地方の零細企業か!この期に及んでいやに家庭的な東電の対応を見ていて、肩の力が抜ける思いがした。
「一号機から四号機まで廃炉せざるを得ない」といっているが、冗談ではない、残り全部含めて、福島県から出て行け!こんな危ないもの、いつまでここに置いておくつもりだ。私はこの会長の話の中で、廃炉という当たり前の決断を今頃いってくる態度に非常に不快感を覚えた。
蟹工船みたいに、いっそ叛乱でも起こすか!という私の足下は、今日もグラリグラリと揺れている。
3月31日
今朝は昨日の記事のこと(当社が放射能汚染に脅かされているというもの)で早速Aクリーニング新聞のB編集長から電話が来た。内容は釈明というよりは、いいわけだった。
私:いったいあの記事はなんなんだ。オレのところで被害なんてほとんどないだろ!
板:電話でそう聞いたから書いた。
私:放射能汚染に脅かされているって何だ!
板:電話でそういうニュアンスを感じた。
私:謝罪記事を出せ!
板:そういう抗議があったことは書く。
(ここから話題を変更)
私:これは前から言いたかったんだが、あんた、Rに金をもらって良いことばかり書いてるだろ!そういうのを提灯記事というんだ!
板:しばし沈黙・・・
そういうことなら、Bに聞いてくれ(みんなやっているの意)。Bは、うちよりもずっと前からやってるじゃないか。
私:建築基準法問題では、「ピンチをチャンスに」とか、Rの良いことばっかり書いてるだろ。
板:そりゃあ物事にはいろいろな見方があるだろう。
私:Rだってかなり被害があったはずだろう。そういうことに全然触れていないじゃないか?
板:Rの被害の件は次回にやる予定だ。
というわけで、放射能汚染に脅かされていると書く根拠は、このAという新聞社が建築基準法問題で摘発されたRの提灯記事ばかり書くので、その会社にそそのかされて当社に風評被害を与えようとしているのじゃないのか、という拡大した内容で話を進めた(というよりは問いつめた)が、提灯記事を書いていることを大筋で認め、金をもらってその会社に有利なことを書くクリーニング業 界の業界紙の体質を遂に告白した!
なお、この編集長は私が「クリーニングのヒミツ教えます」のタイトルで週刊金曜日に先週まで連載していたコラムにも触れ、「(クリーニング業界で次世代溶剤と呼ばれ、Rが盛んに宣伝している)ソルカンドライについても悪口を言っている様だが、あれはR以上に白洋舎も使っているんだ」と、R擁護、白洋舎(業界一位)への責任転嫁的な発言もしていた。
白洋舎もソルカンドライを使用している様だが、それは全ての溶剤をクリーニングの適正に合わせ使用する、という白洋舎の方針によって使用しているものであり、Rのように石油系溶剤を不正に使用していて、行政から止められてやむを得ず使用しているのとはわけが違う。また、白洋舎はソルカン使用を客にPRしていないが、Rは「素晴らしいエコ溶剤」などと、この地球温暖化係数が二酸化炭素の910倍という温暖化物質を、素晴らしいもののように喧伝している。同日に語られては白洋舎に気の毒というものだろう。
クリーニング業者に、悪質な手口について追求すると、必ず出てくるのが「他もやってるじゃないか」という言葉。自分だけじゃない、ということだが、早い話がクリーニング業者はみんな悪いと言っているようなもの。クリーニング業者に新聞を売っているのに、よくそんなことが言えるものだ。
しかしながら、この編集長は、「お前は金をもらってRの提灯記事を書いているだろう」という質問を、事実上イエスと答えている。この業界は、提灯記事が当たり前の世界なのだ。クリーニング業界紙は平然と提灯記事を書くという証拠を得ただけでも大きい進歩である。
勿論、この会話は録音を取っておいた。こんな厳しい地震被害の中でも、クリーニングの闘いは依然として繰り広げられているのだ。
板東編集長は、前にはキネマ旬報の編集部にいた文化系記者。映画業界にも顔が利き、2年前には「サンシャイン・クリーニング」という映画の試写会に呼んでもらったこともある。前は話のわかる理解者だった。
しかし、建築基準法問題が勃発した2009年7月以降、どこへ行っても私の近くに来て、隣に座ったり、研修旅行の際は無理矢理相部屋に割り込んだりして、いつも寄ってくる。どうやら、Rに頼まれ、情報を集めてこいと言われているようだ。敵のしもべに成り下がったか・・・。
しかしながら、この人も素晴らしい文化人だったのに、わずかな金のために(わずかだかどうだかわからないが)不正な業者の提灯記事記者に成り下がった現実は大変残念だ。提灯記事を書いていることに関し、ウソを付けず素直に認めてしまった当たりに、心の隅にわずかながら残る、文化人らしさをかいま見たような気がした。私は最後に、「あなたのような文化人が、金のために提灯記事なんか書くのは本当に悲しいよ」と、全くの本心を述べた。何も反 しなかった。
本日は会津まで行った。受付をしているオーナーと契約更改の話をするためである。途中、サービスエリアにはものすごくたくさんのローリー車が止まっていた。今までこんなにローリー車を見かけたことはない。昨日から急にガソリンが供給されたのは、こういう車がたくさん来てくれたからだろう。サービスエリアにいっぱい止まっているローリー車に、ありがとう!と言いたい。大変嬉しくなった。
会津は、こっちの地震被害がウソのように何ともなかった。中通りは年中グラグラ揺れているが、それもない。
こちらにも避難民が来ていて、あちこちの避難所で生活している。当社 のコインランドリーは会津地方に多いが、どこもかなり入っている。そういう利用者の車は「いわきナンバー」が多いらしい。そうなると、浜通りから避難して きた人たちなのだろう。特に、津波で逃げてきた人というより、原発で避難させられた人たちのようだ。
本日で3月も終わり。史上最低の3月だった。考えられないような天災に見舞われただけではなく、原発事故はひどすぎる。4月に好転することを期待したい。