2008年の11月から我が家に猫がやってきた。
猫を飼ったことはほとんどない。ずっと犬がいたが、猫は小さいとき、祖父と同居していた時代と、会津にいた時代に迷い猫がやってきた数ヶ月以外全くない。本当に縁のない動物ではあるが、飼い猫、野良猫を含め、昔から近所にはゾロゾロいる。
猫は、我が家にやって来たときにはまだヨチヨチ歩きだった。相当チビのうちから親元を離されてしまったのだろう。小鳥のように籠に入れられていたが、数日で外に出た。今はだいぶ成長し、子供達にかわいがられ、家の中をはね回っている。
飼ってみると、今までわからなかった猫の性格がかいま見れる。
まず、極端な寂しがり屋である。みんなが出かけ、家に私以外いなくなると、私に頼って くる。にゃおー、にゃおーと寄ってきて、爪を立てて座っている私をよじ登ってくる。足から登り、ひざ、腰、胸と登って肩に乗っている、これじゃあ小鳥だ。 こっちと頼って登ってくるんだろうが、ここまで来るとまさか顔には爪を立てて登れないことはわかっているらしく、どうしていいかわからずにいる。とにか く、誰かが一人になると、その人物と仲良くしたいようだ。
また、これも極端なマイペースである。相手に合わせるということもないので、毎日好きなように暮らしている。アフリカでは猫は天才である(何もしないのに暮らしていけるから)というが、ホントにそうだと思う。
私は生まれたときから犬を飼っていない時期がほとんどないので、どうしても犬と比較するようになる。
犬というのは、人間と自分の立場をわきまえ、自分がどうあるべきかを考えて行動してい るように思える。自分の役割を果たすべく、自分の位置づけを模索しているのである。番犬となって見覚えのない人物を吠えたり、猟犬などは主人の狩猟の手助 けをしたりと、役割を全うしようと努力する。
これに対し、猫は、人間との役割を意識しているようには感じられない。なにかしら、自分がいかに気楽に生きていけるかを追求しているように感じられる。人間にうまく頼り、波風を立てずにうまく乗り越えようとしているのだ。
ネズミをつかまえることが猫の仕事でなくなった現在、特に猫の仕事というものはない。不審者が近づいても、犬のように吼えて威嚇したりすることもないし、ただいるだけである。
しかし、その「いるだけ」のありかたがうまい。子供が昼寝していると、その近くで一緒になって同じポーズで寝ているのである。はたでそれを見ていると、何の意味もないのに、それもありかな、と思えてくる。
実用性がほとんどないのに、それとなく存在感を示し、家族や家屋とも同化している。さりげなく存在感を主張するのはかなり難しい。違和感なく行動を周囲に納得させなければならないからだ。ある意味、ブライアン・イーノの環境音楽にも通じる生き方である。
しかし、連中にも何か私たちには知らない世界があるらしい。うちの猫は表には出ない が、時々、近隣のノラとおぼしき猫がやってきて、ガラス越しに向き合っている。その様子は、明らかに後輩の猫に何かを教えに来ているのだ。猫世界には何が あるのだろうか?猫世界の掟のようなものがあるのだろうか?
そういう猫であっても、この地のルールには従ってもらうしかない。いつも風呂に入れられて、スリムになってこたつに飛び込んでくるのであった。