「日本最長老現役監督」 犬塚稔氏と会見!

image008

 須賀川市が現在進めている円谷英二氏に関する事業の中で、かねてからお会いしたいと考えていた犬塚稔氏と10月31日、滋賀県安曇川市の犬塚氏の自宅でお会いし、お話をうかがった。4時間に及ぶお話の中には、円谷氏に関する知られていなかったお話も飛び出し、充実した会談であった。以下はその内容である。

 

安曇川への出発

「日本最長老現役監督」、犬塚稔氏は、滋賀県安曇川町というところにお住まいである。私のコンピューターに付いているソフト、「駅すぱあと」によると、大阪から電車で一本で行けるみたいだ。10月31日、さっそく私は福島空港から出発した。

新大阪駅から山陽本線に乗って出発すると、一発で行けるのは一日に何本もは出ていない。京都駅の次、山科駅で湖西線に乗り換えて、正味新大阪から2時間かけて安曇川駅に到着した。途中の琵琶湖の景色が美しく、旅行気分ながらも安曇川町が近づいてくると緊張してきた。

安曇川駅に着くと、何となくローカルな印象のあるところだったが、タクシーに乗ると、「ああ、あの有名な先生のところね。」という事で、すぐに分かり、田んぼのあぜ道のような道路を10分ほど飛ばして犬塚氏の家に到着した。駅で電話をしておいたので、家では犬塚氏の奥様が玄関まで出て待っていてくれた。

家の中に入り、居間へ通されると、犬塚氏は「遠いところを良く来たね。」ということでさっそくお話をしてくれた。さすがは芸術家の家らしく、ズラリと本が並び、応接セット の隣には外国の映画に出てくるような丸いテーブルがあった。おそらくは、ここが氏のアイディアの源なのだろう。

さて、ここで犬塚氏の経歴を紹介しておこう。犬塚氏は子供の頃、父親と死別し、母親とともに親類を頼って台湾へ渡り、学校を卒業後銀行員をしていたが、もともと好きだった 戯曲の脚本家になりたくて、周囲の反対を押しきって上京、着々と戯曲家への道を歩むが、大正12年、関東大震災によって戯曲家を続けることが難しくなり、 京都へ行って映画の脚本家へと転身した。時代劇全盛時代の当時の映画界に多数の脚本を提供したが、自身も監督となり、第1作は円谷英二氏も初めてカメラマンを担当する「稚児の剣法」。ちなみに、主演はこれも映画初登場の林長二郎(長谷川和夫)だった。監督作品も多いが、やはり脚本家としての名声のほうが上回っており、特に座頭市の脚本を書いて、架空の人物であった座頭市を登場させた功績が光る。

1901年生まれということだが、お話が始まると、とてもそういう年齢の方という印象はなく、私とこの後4時間を超える話になるのだが、通常の会話をしていて全く困らなかった。これは立派というほかはない。

 

犬塚氏、円谷英二氏との出会い

さて、事前に当方の事を話しておいたから、円谷英二氏の件で来たことは先方も御承知であったが、実は、犬塚氏は「ゴジラ」以降は円谷氏と全く会っていないのだという。後述するが、円谷氏は相当犬塚氏に世話になっていたので、何度か会おうという事で誘われたが、会わずに終わってしまったのだそうだ。「円谷君の事は、彼のわびしい時代しか知らないよ。」とのことだが、こっちはそれが知りたいのだから―――。

最初の二人があっ たのは、昭和2年の事だった。戯曲から転身した犬塚氏は脚本を書いていたが、兵役の後一度は実家に戻った円谷氏がやはり映画界復帰を果たし、一度は東京の小笠原プロへ入るが、やはり関東大震災の影響で東京では映画の仕事がなく、当時の映画のメッカ、京都にやってきたが、名カメラマンと言われた杉山公平につき、助手として活躍していたのがこの頃である。犬塚氏は、円谷氏の最初の印象として、三脚を担いで走り回り(当時のキャメラは重かった)、フィルムがなくなったら急いで入れ替えている慌ただしい円谷氏の姿が思い浮かぶという。大変な決心をして自宅を飛び出し,再び映画界入りする円谷氏は、名カメラマンのもとで厳しいが実の生る研鑚を重ねていたのだろうと思われる。

 

犬塚氏の監督デビュー作、円谷氏のカメラマンデビュー作、

「稚児の剣法」

 image002

(「稚児の剣法」ポスター)

この二人が直接の出会いを果たすのは「稚児の剣法」(昭和2年)であった。この映画は松竹の役員であった白井信太郎氏に呼ばれた犬塚氏が、新人俳優の林長二郎を紹介され、 「この俳優を売り出したいから君が監督をやってみろ。」と言われ、考えるまもなく決定した企画であった。明日までに脚本を書け、と言われて、犬塚氏は一本の映画を夜も寝ないで13時間で書き上げたという。脚本を読んでみろと言われた犬塚氏は、疲労のためロレツが回らなくなってやっと読み上げたそうだ。

さて、こうやって完成した脚本だったが、現場(撮影現場)をやったこともない犬塚氏であった。カメラマンを誰にしようかと考えた犬塚氏は、名作「狂った1頁」、「十字路」で知られる大監督、衣笠貞ノ助氏の専属であった杉山公平カメラマンに相談したところ、「それなら円谷がいいですよ。」とそれまで一本立ちカメラマンの経験がない円谷英二を紹介された。杉山公平は、自分の一番弟子であった円谷氏を信頼していたようだ。そこで犬塚氏 は、「自分は、現場を全く知らないが、カメラマンを引き受けてくれるか。」と円谷氏に頼むと、「喜んでやります。」と円谷氏は二つ返事でOKしたのだそうだ。こうして、一本立ちのカメラマンとして円谷氏が登場した。

とはいえ、初心者ぞろいのこのスタッフがスイスイと撮影をしていたわけではない。日本橋での殺陣では、京都の氏橋を日本橋に見立てて撮影をしたが、この時に何度言っても主演の林長二郎が橋の上で立ち止まる場所が合わず、円谷氏はとうとう怒り出してしまったという。

ようやく完成したこの作品は、当初は素人ばかりの映画ということで、林長二郎のデビュー作にはふさわしくないと、別な映画(御嬢吉三)を衣笠貞の助監督で撮り、第2作として世に出るはずだったが、試写では出来がよいと評判になり、結局デビュー作として世に出ることになった。そしてこの映画は大ヒットし、犬塚氏、円谷氏らの地位は確立するのである。当時を振り返って犬塚氏は、「あの時、私は脚本家上がりであり、出来上がった映画を見て、それについていつも批評をするので、上司である玉井信太郎氏から、君は文句ばかり言うじゃないか、それなら自分で監督をやってみろ、と言われた。現場の経験がないことが不安だったが、円谷氏が現場を知っているので非常に力になったよ。」と当時を回顧する。名カメラマン、杉山公平氏が「安心して任せられる」として推薦し、円谷氏も「喜んでやる。」と言ったあたりは、カメラマンとしての当時の円谷氏の熟達した腕が、周囲に認められつつあった賜であり、後に開花する映画技術の萌芽の時期であったように思える。

image004

(キネマ旬報に載った稚児の剣法の広告。期待の大きさがうかがわれる)

image006

(キネマ旬報による「稚児の剣法」論評。円谷英二の撮影が「杉山氏に負けない出来映え」と評価されているのがわかる)

苦心の連続だったトーキーの最初期

 

こうした当時の映画は、もちろん無声のもので、映画館で弁士がついているものだったが、やがて日本映画界も映画に音がつき、すなわちトーキーの時代を迎えることになる。日本最初のトーキー映画は昭和6年、「マダムと女房」という作品で、コメディーだったが、犬塚氏、円谷氏のコンビは日本映画界のトーキー第3作目、「怪談・ ゆうなぎ草子」を昭和7年に撮影することになった。

現在は音だけを後でかぶせるような方法を行うことがあるが、当時はフィルムがすべて一緒になっており、オーバーダビングなど出来るものではなかった。野外録音を経験したことのある人ならわかることだが、雑踏で人の声を録音すると、肝心の声よりも雑音のほうがずっと大きく入っていたりする。このため最初期のトーキー映画撮影 には大変な苦労があった様だ。

撮影していると、 どうしてもカメラの回る音が入ってしまうので、カメラにドテラを着せ、音を入らないようにしたり、ステージのすみにガラスの部屋を作り、そこからカメラで 撮影してマイクを外に置き、カメラ音を防いだりしたが、どれも効果的とは言えず、雑音が入って取り直しになるなどの事が多かったという。しかし、撮影所の隣に小唄の先生がいて、時にはそれを効果的に使用することもあったそうである。

拙著「翔びつづけ る紙飛行機」には、後ろに英二氏のこの頃の手紙(昭和8年)を載せたが、その中にはこの様なトーキー最初期の苦労を、英二氏がスクリーンプロセスの技術をもって解決しようという事を実家に宛てて詳しく述べているが、その手紙と今回のお話を聞くと、当時の映画人の苦労がよく分かる気がする。

無声からトーキーへ---。こういった映画技術の進歩の裏には、人知れぬ当時の映画人の苦労がある。カメラマンであり、技術者でもあった英二氏は、こういう時に大いなる活躍の場と思っていたのではないだろうか。

 

松竹から日活へ

 遂にトーキーの時代へ突入した日本映画界だったが、ここで犬塚氏、円谷氏には転機が訪れる。松竹で活躍していた二人に、日活の総務部から後の映画界の風雲児となる永田氏が、犬塚氏を引き抜きに来たのだ。

永田氏の出した条件は破格だった。月給は倍にして、契約金も出すというのだ。義理堅い犬塚氏はこの事を松竹の幹部に話すが、「君はそんなことを言って給料を上げようと言うのだろう。」という言葉に腹を立て、遂に移籍を決心する。

しかし、犬塚氏は移籍の条件として、「あと5人ほど連れていっていいか?」と言った。円谷氏を含む自分のスタッフも一緒に連れていきたかったのである。これも了承され、今度は日活で二人の仕事が始まった。

実は、この時に日活が犬塚氏を引き抜きにやってきたのは、当時はトーキーが始まったばかりであり、日活にはトーキーを撮れる技術者がいなかった。そこでトーキーをやっていた松竹のスタッフに声がかかったのであるが、犬塚氏が円谷氏をはじめとする自分のスタッフを連れていきたかったのは、そういったトーキーの技術的な問題があったのかも知れない。

給料も倍になって 日活の生活が始まるのだが、決して良い事ばかりではなかった。あとから来てよい給料をもらう彼らを従来のスタッフらは妬ましく思い、いろいろ嫌がらせもされたようだ。みんなで飲み屋に行って「あんたは給料が良いんだからみんなの分も払え。」と言われ全部払わせられたり、インチキのくじを作って食事代を誰が払うかの賭けをさせられたりしたが、円谷氏も、残された文献にはこの頃の嫌がらせの事を書いているものもある。

また、日活は松竹よりも厳しい面があった。今まではフィルムを無駄にしてもそれほど問題がなかったが、今度は会社ががっちり管理していたため、松竹流の撮影ができなかったのである。円谷氏は納得がいかないと撮り直す完全主義者の一面があったため、どうしても他のカメラマンよりフィルムが多く必要だったのである。困った二人だったが、別の部所では、フィルムをまるで無駄にしない「早撮りの巨匠」渡辺邦男監督がいた。この監督は、「ふつうにしゃべっていても間違うときがあるのだから、本番でセリフを間違ったぐらいではいちいち取り直しはしない。」という徹底した合理主義者だったので、いつもフィルムが余った。このフィルムを譲り受けて、二人は撮影を続けたのである。

犬塚氏が脚本・監督をして円谷氏がカメラマンをやった「長脇差(ドス)風景」という作品は大河内伝次郎のデビュー作であり、犬塚、円谷両氏の日活移籍第1作である。大河内伝次郎は最初の頃は演技が下手で、これにも苦労をさせられたという。この時代にいた名優には、「バンツマ」として知られる板東妻三郎もいた。

image007

(犬塚、円谷コンビによる日活第一作、「長脇差風景」)

 

円谷氏、犬塚氏の別れ

 一緒に撮影することの多かった二人だが、犬塚氏は自分が監督する作品のほとんどをみずからが脚本を書き、他の監督の脚本もたくさん執筆する忙しさだったが、英二氏もこの時代にも着々と撮影、特に特殊撮影の研究に磨きをかけていた。犬塚氏が舞台のセットを見て、「何だかこのセットは奥行きがないなあ。」などと言うと、英二氏はあっという間にガラスに絵を描き、ホリゾントを作成して犬塚氏の要求に応えたという。犬塚氏は当時の英二氏を、「才能があって、思い付きがあった。」 と述懐する。この時代も、トーキーの時代へ向かってスクリーンプロセスのセットを自作するが、結果は思わしくなかったという記述もある。

さて、当時の時代 劇全盛の映画界にあっては、スターの顔をはっきり映すことが絶対の条件だったが、研究熱心な英二氏は海外の映画などを見て、決して明るいばかりでなく、暗い場面(ローキー)もまた一つの表現方法であることを感じ、他のカメラマンよりは積極的に暗い場面を撮影した。犬塚氏監督の昭和9年の作品、「浅太郎赤城 颪(おろし)」では、この事が日活幹部の反感を買い、試写会でも「ローキーだ、ローキーだ。」の声が上がったそうである。この様な自分の表現が評価されないことに怒りを感じた円谷氏は、ついに日活を退社してしまう。この事について犬塚氏は「私は、やめないように何度も言ったのだが、彼は聞かなかった。彼の決意は堅かったようだ。」と言い、問題のローキーに関しては、「今、映画でもテレビでも、暗い場面などはいくらでも出てくる。当時はマキノ正三の提唱した映画三原則の中に明るさというのもあったのだが、今の感覚では少しもおかしくはない。」という。当時は、時代劇のスターを出来るだけ明るく撮影するのが常識だったのである。この様な分野においても、円谷氏は時代の先を行っていたようだ。

しかしながら、この日活時代を最後に、実質的に映画界で犬塚氏と円谷氏が仕事をすることはなかった。

 

幻の企画、大ダコ映画

 ここでとっておきの特ダネを紹介する。日活を辞めた円谷氏は当時新興のトーキーの映画会社、JO(東宝の前身)に入社し、犬塚氏にも「ここは良いところだ。犬塚さんもこっちへ来たほうが良いよ。」などと誘ったりして親交は続くのだが、戦時中、円谷氏が「ハワイ・マレー沖海戦」などを製作している時に、犬塚氏はなんと、 大ダコが大暴れする映画のあらすじを英二氏に話したという。

よく知られている ところでは、昭和29年、すなわちあの「ゴジラ」の年に、英二氏は南海で大ダコが大暴れする映画の企画を話そうと思ったが、もう会社から古代の恐竜のような怪獣の映画の企画が進行しているとの事であり、遂に話せなかったという逸話が伝わっているが、それは、実は円谷氏の発案ではなく、犬塚氏が戦時中に円谷氏に話したというのだ!これには私も驚いてしまった。

この、幻の、おそらくは日本初の巨大怪獣映画のお話は以下の通りである。

 

南洋の海で各国の汽船が原因不明の沈没事故を起こす。よくよく調べてみると、どうやら南洋の海底に潜む、巨大なタコによる仕業とわかる(ここまでは特撮ファンにはよく知られている。)

このタコを退治するため、タコは酢に弱い事を確認し、軍は新兵器「酢鉄砲」を開発し、タコに一斉放射、遂に大ダコもグッタリとなる。

船に付けて日本まで搬送するが、日本近海でタコは目覚め、東京で大暴れをする(おお、キングコング対ゴジラの展開だ!)。大暴れしたタコは何と富士山に上ってしまう。

富士山に上ったタコに今度は空から、飛行機による酢鉄砲の掃射、しかしタコもスミを吐き、富士山は真っ黒になる。しかし、さしもの大ダコも飛行機からの攻撃には勝てず、遂に巨大な酢ダコになってしまう。

酢ダコとなった巨体は、切り刻まれて日本中に配給されて、戦時中の食糧難の折り、国民に喜ばれて一巻の終わり。

 

シリアスな怪獣映画ではなく、ややコメディ・タッチな内容だが、現実に映画化していれば、日本の怪獣映画の歴史は確実に変わっていただろう。また、タコが出てきたり、船で搬送される展開は、あるいは何らかの形であの「キングコング対ゴジラ」に転用されているのかもしれない。また、何らかの形で東京に現れた怪獣が東京で大暴 れするというのは、昭和29年「ゴジラ」以降の日本怪獣映画の定番となる。

円谷氏はこの企画を、戦時中から昭和29年までの間、10年以上もあたためていたのだろうか?

私は、戦後の怪獣 映画の中で大ダコが重要な役目を果たし、「キングコング対ゴジラ」の中では大ダコの場面が素晴らしくて海外のバイヤーに大人気だったこと、「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」や、「サンダ対ガイラ」でも大ダコの場面が出てきて、特に前者では、海外の要求に応え、山の中に無理矢理タコが出てきます、というような説明をすると、犬塚氏は「おお、そうだったのか。」と大変興味深そうに聞いていた。実際、日本脚本界の大御所が怪獣映画の企画を最初に円谷氏に伝え、円谷氏もそれを10年以上も考えていたのかと思うと、実はこの企画は、日本特撮史上においてきわめて重要なものであるように感じるのである。

昭和29年の最初 の「ゴジラ」が、原爆実験のような極めて深刻な内容を持っているだけに、日本の怪獣映画というのはシリアスな方向へ向かっていったが、円谷氏自身はあまりそういう方向性を好きではなかったらしく、円谷プロ以降のテレビ映画ではコメディ・タッチの秀作が多いし、「キングコング対ゴジラ」では、周囲が止めるのも聞かずに両大怪獣の闘いを、当時流行のプロレス技を多彩に使った作品に仕上げている。そういうのも、もしかするとこの様な企画の影響だったのかも知れな い。映画がシリアスな現実主義を目指すというよりも、「夢のある」内容を求めるといった傾向は、すでにこの頃から芽生えていたともいえる。

 

犬塚氏が語る当時の円谷氏

 

後に「特撮の神様」と言われる円谷氏だが、その若き日はどんな様子だったのだろうか?あらかじめ質問事項をたくさん持っていってたので聞いてみた。

「彼のわびしい時代しか知らない。」というお話で始まったわけだが、当時の英二氏のプライベートな部分などもぜひ聞きたいところだ。

前述の通り、「稚児の剣法」という映画以来、コンビを組むことが多かった二人だが、セットを作らせると抜群にうまかったという通り、当時から特殊技術の腕が冴え、ミニチュアを作るのもうまかったそうである。この技術は、円谷氏の方から「誰々に習った。」と言う事はなかったそうだが、おそらくは最初の師である枝正義郎氏の技術を覚えたことに間違いがないように思われる。それは、その後、犬塚氏に会うまで、主立った技術関係の所にいたことがないことからも明らかである。「第二の師」と想像していた衣笠貞ノ助監督については、「実質的にあっている期間が短く、影響を受けたとは思えない。」とのことだった。従って、無声映画時代の超傑作、「狂った1頁」(衣笠貞ノ助監督、犬塚氏も脚本で参加)も円谷氏が入る余地はなかったとのことだ。

また、犬塚氏と活躍している時代に生涯の伴侶、荒木マサノさんと結婚するわけだが、これについては、「いつのまにか結婚してたという感じだった。」との事で、犬塚氏の印象にあまり残っていないらしい。

 

円谷英二の決意

 

また、犬塚氏によ ると、「円谷君は自分の故郷の事など一度も話したことがなかったから、君に聞いて始めて出身地がわかったよ。」というほど、須賀川の話を周囲の人にしたりはしなかったようだ。無声映画からトーキーの時期に本名の円谷英一から「英二」に変わる(実家に宛てた手紙から推察される)わけだが、2度目の出発となるこの時期には、以前とは違う心構えが出来てきたようだ。この「改名」の件に関しても、犬塚氏は「いつ変わったのかは知らない。」との事だった。これは、周囲におおっぴらに宣言するというより、自分でそう決めてかかったのかも知れない(これについては「ナマリ説―――自分の事をエ-イジと発音したから」、 「一郎氏の弟説―――弟のように可愛がられたから」、「姓名判断説―――英一を英二にすると格段に画数が良くなるから」があるが、今回の訪問によって姓名判断説が強くなった)。

犬塚氏も、「無口で、物静かな男だったが、仕事は信頼できた。酒は好きなほうで、いつも一緒に飲んでいたよ。」という事だが、いつも一緒に酒を飲んでいながら、ぜんぜん故郷の事を話さないというのはどういう事だろうか。また、あれほど憧れていた飛行機の事も、酔った席でも全く話さなかったという。「飛行機の事はこれっぽっちも聞いていない。」という犬塚氏。

それに、現存するわずかな映像からは、それが最晩年のものにも関わらず、私たちと同じような東北ナマリを聞き取れるのだが、これについても「そのように感じたことはない。」との事。

これらをまとめると以下のようになる。

  1. 故郷の話は一切しなかった。
  2. 故郷のナマリを感じるような事はなかった(本人が必死に隠そうとした?)。
  3. 名前が「英一」から、「英二」に変わっている。
  4. あれほど憧れていた飛行機の話も一切しなかった。

5、仕事一筋だった。

犬塚氏らと行動を 共にした大正14年から昭和9年までの10年間、これは円谷氏にとって2度目の「出発」に当たるわけだが、「米を買ってくる。」と言って家を飛び出してしまった出発(円谷誠氏談)は、すなわち家出同然のスタートを意味する。安定した生活を捨て、信頼する家族を捨て、「安住の地」須賀川を飛び出してしまった英二氏には、よほどの覚悟があったに違いない。これは、単なる都会への憧れのようなものではなく、もはや飛行機への夢を断たれてしまった自分が行く道は、 映画しかないというシビアな決意ではなかったろうか。一度都会をみた者は、望郷の念はあっても、都会に自分の夢を見る。これほどの決意を英一青年にさせた のは、枝正氏によって魅せられた「映画」という文化の限りない可能性ではなかったのだろうか。田舎にいて、周りと仲良くやっていくのも良いだろう。しかし、自分の中にあるもう一つの使命が、ここにいては駄目になる!自分はここにいてはだめだ!と叫んでいる。たとえ厳しくても、可能性に賭けるしかないのじゃないか―――。若い円谷氏の魂は、自分を奮起させ、映画と言う可能性に賭けてみようと言う決心をさせたのではないだろうか?

家族の反対は目に見えている。これを押し切っていくためには、自分は必ず名を残さなければいけない、そう思ったのではないだろうか?

 

前回のウルトラ春秋に書いたように、今回、犬塚氏にお会いして聞きたかったのは、円谷氏の青年期の部分で、比較的謎の部分をぜひ解明したいと思って来たのだが、今まで知らなかった事が聞き出せたり、当時の映画界全般にわたる状況もよく理解できたものの、用意していた質問には、明快な結論を見出せるには至らなかった。それは、犬塚氏が教えてくれなかったのではなく、実質的に円谷氏本人の心のうちにとどめておきたいという部分が多く、周囲にも語らなかったのだ。たとえ、それが親しい友人との酒の席であっても―――。

 

円谷氏の苦悩

 

円谷氏は幼いとき、両親には死別したりしたものの、恵まれた環境の中で育ち、そして、最初の状況のときには飛行機、発明、映画といった当時第一線の将来性、可能性のある言わばベンチャー・ビジネスを体験し、都会の風に当たり、人生の可能性を満喫した。それは当時の兵役という形で中断し、地理的な条件ゆえの帰郷となったわけだが、田舎へ帰った人間が決して故郷での生活に満足する事がないように、やはり自分の可能性を見出すには都会へ向かうしかないと感じたのではないかと思う。しかしながら、家庭の愛情が深い場合にはそれが大きな足かせとなる。家出同然で再び都会へ向かった英二氏は、家庭の愛情を振り切り、自分の可能性を試すために再出発したのである。それは、決して過去を振り返らないという辛い決心の上であったようだ。

しかしながら、 「特撮の神様」とて結局は人間である。時には昔を思い出し、悲しくなる事もあったと思う。犬塚氏のお話では、「悪い印象のまったくない男だったが、不摂生だった。酒はかなり飲んだし、たばこの量も多かった。おい、飲みに行こう、と言って、いつも飲んでいたよ。」という事だった。また、賭け事はあまり好きではなかったようだが、時には映画仲間と賭けマージャンをやって警察に連れて行かれたなどという、あまり芳しくない出来事もあったそうである。その時には、 「円谷がいないと映画が撮れません。どうか帰してやってください。」と、犬塚氏が警察に嘆願しに行ったのである。後の人生でも、賭け事にうつつを抜かすという事はなかったから、この時ばかりの出来事なのだと思うが、「警察へ行くと、円谷は当時の囚人服(帯のないゆかたみたいなもの)を着て、情けない顔をしていた。あれは本人もよほどこたえたと思うよ。」というほど本人も狼狽したようだ。嘆願してくれた犬塚氏があってこそ、円谷氏の映画人生もあったのかと思 う。

また、「キチンと会社は金をくれているはずなのに、いつも金に困っていた。何度か金を貸してやった事もある。期日になっても金を返せなくて、もう少し待ってくれ、と書いてきた手紙を今でも持っているよ。」ということだった。これは、一般的な考えとすれば特殊撮影の研究に自腹を切り、結果としていつも金欠だったという事になるのだろうが、円谷氏は欲しいものをすぐ買ってしまうのでいつも金がなかったと言われているが、それはこの時期にもう始まっていた様だ。もっとも、そればかりではなく、酒代と言うのも馬鹿にはならなかったのではないかとも思えるが。固い決意をして上京したものの、時には故郷を思い出し、酒を飲む円谷氏というのも何となく想像できる。、

松竹を経て、日活へ行き、そして犬塚氏と別れて東宝の前身であるJOという会社に進んだわけだが、犬塚氏にこっちへ来いと言うほどに良かったといわれるJO時代においても、犬塚氏はこんな話をしてくれた。

「ある日、京都のダイマルデパートへ行ったとき、円谷君が一坪ほどの場所で、自分で足のペダルを踏むと、写真が取れる機械をおいてアルバイトしていた。どうだ、儲かるかい、と聞くと、いや、そうでもないんだ、と言っていたよ。」との事である。これは今でいうスピード証明写真(もっと言えばプリクラ)だが、戦後の発明ではなく、昭和10年頃にすでに円谷氏は実用化していて、デパートでやっていたようだ。円谷氏は一面発明家としても知られるが、この話は、映画意外の手段でも 更に収入を得ようとしていたものと感じられる。

 

円谷氏の恩師

 

私は当初、円谷氏の活躍の中で、最初期に枝正義郎と衣笠貞ノ助という二人の恩師によって大きな影響を受けたと考えていたが、枝正氏に関してはともかく、名監督と言われた衣 笠貞の助にはあまり影響を受けてはいなかった事が今回わかった。犬塚氏によると、「円谷氏は衣笠映画連盟に所属していたが、期間が短かったので大した影響はないよ。」との事だった。ここではむしろ、犬塚氏に初カメラマンを自信を持って推薦した杉山公平カメラマンの方が、影響が大きいのかも知れない。

衣笠氏に関しては、当時流行したシュールレアリズムを映画に取り入れようと考え、犬塚氏の協力を得て最初はサーカスを題材とした映画を撮ろうと考えていたのだが、結局は精神病院を舞台にした映画として「狂った1頁」が完成する。この幻想的な場面が円谷氏の後の考えに影響を与えたのではないかと考えていたのだが、それはなかったようで、当時の師匠、杉山公平氏が衣笠氏の専属カメラマンだったので、それに追従していたというのが事実かと思われる。

それ以前は映画界と全く縁のなかった円谷氏を説得してまで映画界入りさせた枝正義郎という人物については、なにしろ昔の人なので現在ではその人となりを探るのは難しいと思 えたが、枝正氏監督による映画の脚本も3本ぐらい書いたという犬塚氏によれば、「枝正さんはとても温厚な紳士だった。」との事だった。文献によると、最初期の映画界では尾上松の助のようなスターとは別に、映画の質を高めるための努力を怠らず、かつ最初期の特撮の技術家としても知られたというから、この様な技術への執筆な姿勢と人柄というのも、実は円谷氏が再び映画界入りする大きな要因になったのではないだろうか。

 

犬塚氏の素顔

 

色々なことを聞いて大変参考になった今回の訪問だが、約束の2時に到着し、2時間が過ぎると、犬塚氏は、「さて、酒でも飲むとするか。君はビールかい?酒かい?」と聞かれてビックリ。「いや、わしは4時になると飲むことにしてるんだよ。」

一応、須賀川から酒をおみやげに持っていったのだが、これを大変喜んでくれた。お年を考えて、あんまり酒を持っていったのでは---と心配していたのだが、それは杞憂だったようだ。

円谷氏とはよく酒を飲みに出かけたという犬塚氏だが、現在でも晩酌をやっているという。普段はコップに一杯程度だが、今回のように客が来ると2杯、3杯と進むのだそうだ。

お話は円谷氏のことから外れて座頭市に進む。犬塚氏こそ、座頭市という架空のキャラクターをこの世に生み出したその人なのだ。

勝新太郎とは10年位前、脚本代の未払いをめぐって裁判にまで発展したが、その時の裁判は本人にとっても全く不愉快なものであったようだ。土下座して「脚本をお願いします。」と言った勝新太郎だったが、作品は良かったものの、様々なトラブルによって脚本料も支払われなかった。裁判所が出した和解案も、極めて不可解なものだった。芸能界には、いろんな事があるもんだと思わされた。

また、現在のテレビなどの時代劇に関しては、「時代考証がまるでなっていない。安易に番組が作られる傾向がある。」と厳しく批判した。確かに、我々がみてもおちゃらけた時代劇があるのだから、この道70年余の犬塚氏からしたら、見ていられないのかも知れない。

 

ビールを奥様に出していただき、飲んでいた私だが、相手が大先生では、いつも飲んでいるようにグビグビやるわけにもいかない。コップにビールがなくなるとすぐに奥様が来てついでくれるので、恐縮していると、「君はそんなに頭を下げなくてもよろしい!」と言われてしまった。京都に長くお住まいになった方らしく、懐石料理のように小鉢に料理を盛って何種類も出していただき、こんなに歓迎されるとは思っていなかったのですごく嬉しかった。

今年96歳の犬塚氏だが、目も耳も健在で、このインタビューの間、普通にしゃべっていて少しも困らなかった。これだけでも本当に立派な事だが、現在もまだ新しい脚本を書いている。健康の秘訣をうかがってみたら、「朝はうどん、昼はパン、牛乳で夜は晩酌をする。飯は食った事がない。」という食生活を送っているが、「常に腹6分目。これは、脚本家は常に頭を使うからだよ。」という事だった。また、「子供には一銭ももらっていない(自活しているとの意)。」という事で、そういった「生涯現役」という姿勢が一番の若さの秘訣ではないかと思われた。映画人生の中でも「一人の先生もなく、一人の弟子もなかった。」との事だ。

また、こうやって訪ねてきた私は、たかが手紙1通の男なのに、酒を飲ませてもらい、奥様の手料理でもてなしていただいている。懐の深さと共に、理解ある奥様の存在も、長生きの条件なのかもしれない。

もっとも、御当人は「私は100歳まで生きますよ。」との事で、「人間はせめて150くらいまで生きられないものかなあ。」と言っており、人生への積極的な姿勢には見習うものがあった。

「泊まっていってもいいんだよ。」とも言われたが、私もこの日は大坂へ宿を取っており、6時過ぎた頃に帰る事にした。さすがにここまで来ると電車も一時間に2本しかなく、 駅に電車が来るタイミングを見てタクシーを呼んでいただいた。本当に、こんなに気を使っていただいてありがたいばかりである。

 

私は何しろ相手が大先生だから、気難しい方なのかと思っていたが、全くそういう事はなく、相手に合わせて話をしてくれたという印象も感じ、誰でも受けいれる温厚な方だっ た。私も映画に関してそれほど詳しく知っているわけではないから多少勉強していったのだが、そういう必要はなかったのかもしれない。また、一緒に酒を飲むくらい健康な方で、話は思わず健康談義にまで行ってしまったのである。私とは年齢差が約60歳あるのだが、そのような印象を感じなかったし、また、私の話も興味深く聞いていただいたように思っている。大脚本家、犬塚氏と一緒に酒を飲むという点で、私は円谷英二氏と同じ体験をする事が出来たのである。

 

私も、円谷氏の研究の参考にするという面が重要なのだが、それよりも、もっと奥の深いところで大変貴重なお話をうかがったように思える。一般的に考えれば大変な御高齢にも関わらず、周りを頼らずに生きる姿、そして生涯現役の仕事を追う姿勢―――――。ちなみに現在執筆中の「新作」は「雪静寂(ゆきしじま)」というタイトル で、映画化する際は、冒頭に特撮場面を使いたい(戦争中の映像なので)との事だった。

変える時間になると、もう湖西線は30分に1本、それも普通列車しか出ていなかった。頭の中が感動でいっぱいだった。「人生とはいったい何か?」学生時代のような気分に、偉人に会う事によって改めてさせられた。

image009