円谷英二氏の息子、一氏の評伝出版される

円谷一 ウルトラQと“テレビ映画”の時代

作者:白石雅彦氏

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 本書は円谷英二氏の息子である円谷一氏の評伝である。

円谷一は昭和6年の生まれというから、私の父と同年齢である。一はまずテレビ業界へ行き、多くのテレビ映画を製作した実績を持っている。主に携わった円谷プロ第一作シリーズ「ウルトラQ」 は大ヒット、怪獣ブーム到来の呼び水となる。だが円谷プロは制作費の高騰と怪獣ブーム斜陽によって経営が悪化、その中で創業者の父・英二が亡くなる。苦し い経営を支えながら製作した「帰ってきたウルトラマン」は制作者の情熱が乗り移ったかのような傑作となるも、会社再建のために苦労があったのだろうか、父 の死からわずか3年の昭和48年、帰らぬ人となる。

 本作は父、英二と比較して非常に資料の少ない一の姿を知 るため、多くの関係者にインタビューを行い、それらを直接文章にして掲載し、生々しい現実を描写することに成功していると思う。インタビューを行った相手 方は拙著「特撮の神様と呼ばれた男」を製作中、やはり私が行った方々とかなり重複し、自分がインタビューしているような臨場感を感じた(ま、それは私だけ だが・・・)。

 

 父・英二は日本映画界とサイレント時代から共に歩み、映像技術の向上に貢献した人物だが、息子・一は日本テレビ界黎明期に活躍し、テレビ映画の製作を行いながらも、VTR登 場の時代も体験し、やはりテレビ業界の発展に大きく関わったものと思われる。本作ではその辺の描写が非常に詳しく、なかなか読ませるところがある。映画界 からテレビへと移行する社会の動き、その中で最初期のテレビ映画を制作していった担当者の努力、また、ウルトラシリーズ以外に一が関わった多くのテレビ映 画などは、むしろウルトラ系を抑えめにし、あまり知られていない作品をできるだけ紹介する作者の意図があるものとも感じられる。

 

 「特撮の神様」の息子として生まれ、その影響を大きく受けたために、本来自分が進むべき道も周囲に決められてしまったような感のある円谷一氏。作品第一主義の父親は、円谷プロの会社運営という点でも息子の一に大きな負担を追わせてしまったようだ。この書物の中では一の音楽への系統(あの有名なウルトラマンの主題歌も「東京一」という名前で関わっているくらいだ)にも触れているが、実相寺氏の書籍にある、ブラームスの交響曲一番、二楽章のくだりなど入れてもらえれば嬉しかった、と思う。

 

 円谷英二の「息子」の伝記だから、私の「特撮の神様と呼ばれた男」からの引用もある。一は戦時中、弟とともに須賀川市に疎開している。その辺の所を私の本から引用しているのだが、疎開先の実家、大束屋には戦争映画で使用された軍用機の模型がいくつも天井から下げられていたという。これは、おそらく英二が二人の息子を気遣って、使用の済んだ飛行機模型を田舎に送ってやったものである。

(東京から地方に疎開してきた子供達は一様に成績も良く、それがいじめに遭うことにもつながった、ということは拙著でもこの書籍でも同じく書いているが、これについて「この本ではこのあたりのことを、おそらくは意識的にぼかしている」とある。いや、そんなことはないですよ。疎開してきた東京の子供達が成績も良く、イジメに遭うことが多かったというのは、私の母親から子供の頃聞かされた話です。)

 「特撮の神様と呼ばれた男」で表した英二の長男、次男の疎開の様子に関しては、大束屋とは同じ隣組に位置する私の父が、同級生だったO氏(元保健所所長だった人)と会話をしているときに私が聞かされた話である。昭和19年頃、大束屋の天井には精巧な軍用機の模型がいくつも吊り下げてあるのを、父や友人が見に行ったというのである。きっと大束屋に、あの「ハワイ・マレー沖海戦」の飛行機があるぞ!などと、子供達の間では話題になったのだろう。隣組でもあったから、私の父は同じ年齢の一氏にも会い、二言三言言葉を交わしたのではないだろうか?

 英二の妻であり、一の母であるマサノ夫人についての記載 もあり、これも拙著から「人間関係を上手に保つのがうまい性格」という文章が引用されている。これについては、昭和29年、まさに「ゴジラ」誕生の年に理容学校で勉強するため、円谷家に下宿していた須賀川市の円谷家ご親戚の方からうかがった話である。上京したこの人の面倒をよくみてくれたのがマサノ夫人だったわけで、まさに英二を支えた功労者だったのだが、一氏にとっても良き母親だったのだろう。

 ついでにもう一つ言うと、文中に一が終戦を疎開先で迎えた可能性が高いとのことだが、それはその通りなのだが、二人の兄弟が東京に帰るのは終戦後1,2年後のことで、英二夫妻が須賀川まで迎えに行き、猛烈に混み合った列車に乗って帰ったとのことが実家に残された英二の手紙からわかっている。

 

 

 全体としての印象は、報われなかった若い命、という印象だが、この様な書籍が世に現れたことにより、円谷一氏の実像が明らかになったことも事実。私の本は「労作」と紹介されている。