ヨミウリウィークリーに円谷英二の手紙掲載

ヨミウリウィークリーに円谷英二の手紙掲載

 

ヨミウリウィークリー7月21日号の「手紙の中の日本人」という連載企画の中に、円谷英二の手紙が紹介されました。

 「手紙の中の日本人」は、著名な人物の手紙の中で、重要な転機となる部分のものを紹介していますが、円谷英二はこの13回目に登場しています。この企画は当方にヨミウリの記者の方から打診され、協力しています。

 円谷英二の手紙は、昭和23年に実家に宛てたものが選ばれています。

 

 この頃、円谷英二は映画会社から追放されるのではと心配する日々を送っていました。当時最大のメディアであった映画に戦時中関わっていたことがその原因です。「ハワイ・マレー沖海戦」に代表されるような戦威高揚映画の製作に携わったこと と、何より軍用教育映画を数多く製作したことは、何らかの戦争責任を問われても仕方のない状況にありました。

 英二はこの時の心境を手紙にしたため須賀川の実家宛てに送っています。「ただ一つの問題は、戦争犯罪者になるか逃れるかです。」という事で、心配な気持ちを切実に記載している反面、「たとへどうならうと国民として当然なすべきことをして来たのですから決して悲観もなく不安もありません。犯罪者として今後指導的な仕事が出来なくなれば映画なんかあっさり捨てて見事に転身する覚悟で…」と、もし映画がダメでも他のことでやっていく心構えを伝えています。これは、郷里の人々を安心させようと多少強がっている面も感じさせますが、現にこの直後、かつて行っていた玩具製作や、オートスナップと呼んでいた自動写真撮影機の製作を行っています。

 

英二苦難の昭和20年代

 しかし、心配は現実となり、英二は公職追放指定となります。この後も映画活動を細々と続けた英二は、各映画会社の特殊撮影部分などの外注を手がけ、大手映画会社のみならず、当時レッドパージによって大手を追われた独立系の特撮部分などで技術をふるっています。本人にとっては安定しない、映画人生の中で最悪の時代だったと思いますが、昭和20年代の「東京五人男」→「或る夜の殿様」→「透明人間現わる」→「箱根風雲録」→「沖縄健児隊」→「君の名は」→「太平洋の鷲」→「さらばラバウル」→「ゴジラ」という流れは、英二の映画人生の中でも最も注目されるところだと思います。

 

円谷英二の手紙

 円谷英二の実家に宛てた手紙は、現在でも現当主の円谷誠氏によって大切に保管されています。その中には生々しい、英二の人生が描かれている場合が多く、本人の人柄や考えを表現しており、大変興味深いものばかりです。また、兄と慕った五歳年上の一郎氏が英二に宛てた手紙もあり(戦時中、一時疎開していた時などに置いていったため)、これもまた強烈な印象を残しています。

 若い頃、映画を辞めようと思って兄に相談し、たしなめられた手紙、昭和8年頃、トーキーが始まった頃に野外ロケの録音に限界を感じ、スクリーンプロセスの研究を実家に説明する手紙、22歳の時、一大決心をして家を飛び出し、「映画界で成功するまでは死んでも家に帰らない」と強い決意を家族に送った手紙など、円谷英二を語る上で最も本人の感情を直接表現している資料は、手紙に書き連ねた英二の文章である事は間違いありません。