円谷英二、時代劇時代を探る
(古い文献等に見られる円谷英二・時代劇時代の活躍)
昭和二年「稚児の剣法」より
故・円谷英二氏は、昭和17年「ハワイ・マレー沖海戦」で戦争映画を特撮で表現して話題となり、昭和29年「ゴジラ」で、特撮技術を大いに認められたが、それ以前の時代に関してはあまり語られてはおらず、謎の部分が多い。
地元須賀川市に住む私にとっては、伝記編纂の必要性からこの辺の時代の解明を行ってきたが、平成13年6月発行の「特撮の神様と呼ばれた男」の中でこれらについてかなり詳しく触れている。
しかし、大正14年以降、すなわち一度帰省した後一大決心をして映画界に戻ってからの活動に関しては、もう少し 研究したいと思っていた。昭和2年、「稚児の剣法」で認められた以降、次第に軍事色が強まり、ナチスドイツの宣伝相ゲッベルスのアイディアで日独合作映画 「新しき土」の制作に関わるあたり(すなわちカメラマン時代)までは、だいたいどんな映画の撮影をやっていたという事くらいしかわからない。
そこで、本業のマスコミの方に紹介してもらい、大昔のキネマ旬報などが存在する場所を探して見せてもらい、これらの研究を行っているという次第である。
お断りしておくが、この当時の作品は、偶然発見された「狂った一頁」(1926)と、合作である「新しき土」くらいしか現存しない。これは、当時のフィルムが可燃性であり、保存が難しいことと、映画フィルムを大切に保存しておこうという習慣が日本映画界にないこと(あのヒット作、「キングコング対ゴジラ」でさえ完全版が存在しない。)等が原因だが、それにしても円谷英二のカメラマンの腕がこの目で確認できないのは何とも残念である。
「キネマ旬報」は、「狂った一頁」あたりの評論から、英二カメラマン第一作「稚児の剣法」、数多くの時代劇等のあらすじや批評、また、現在の文献には登場しない、今回新発見の幻の作品(というか忘れられてる作品)まで詳細に伝えてある。また、英二が後に撮りたいと願った「かぐや姫」は、当時の特撮を駆使した作品であることが語られ、英二が海軍船に乗って各国を旅した様子を記録映画にした「赤道を越えて」もかなり高い評価をされているのがわかる。さらには、英二唯一の監督作品「小唄礫・鳥追お市」も辛口批評されている記事なども見かけられた。
昭和2年「蝙蝠草子」より、こんな場面は英二の独壇場であった。
記事によると、英二のカメラマンの腕は、最初の作品「稚児の剣法」から既に高い評価を得ていた様である。また、トーキー(音付き)登場時期の作品の完成度や、現代劇の評論も多くおもしろい。
やはり興味深いのは、本来であればかなりの本数で制作される濫造時代劇の中にあって、上記の写真に見られるような特撮場面を常に創造し、それを評論家が評価していることである。やはり、「特撮の神様」は、時代劇作品の中でも着々と特撮の腕を磨いていたのである。
すべてをここに記載する事は出来ないので、よくまとめて、次回作(書物)の材料にしたい。