誕生日は1901年7月10日だった!
円谷英二・出生の新事実
円谷家の円谷誠氏
1月31日、熊倉先生を交えて行われた円谷英二記念館構想の打ち合わせの際、出席した円谷家の子孫でJCメンバーでもある円谷誠君が明らかにしたところによると、故・円谷英二氏の誕生日は、現在まで様々な文献に言われているような1901年(明治34年)7月7日ではなく、同年7月10日であることがわかった。
円谷誠君は、家系図を調べているうちに、円谷英二(家系図では円谷英一)の項目が誕生日7月10日であることを確認し、念のため市役所の戸籍も調べたが、7月10日に間違いがなかったという。
地元で活動する我々にとってはかなり基本的な調査だと思うが、同時に円谷誠君にしかできない事でもある。円谷英二氏の経歴や活動に関しては、今までの特撮関係から数多く出版された文献によると、どこでどう調べたのか根本的な誤りが数多くあり、実際、この様な調査がなければ永遠に間違えられたまま後生に伝わる事になり、改めてさらなる研究の必要を感じた次第で ある。
関係者に改めて聞き、事実がわかったという分野に関しては、昨年10月31日、無声映画時代の同僚、犬塚稔氏に聞いた、大ダコ映画の企画が戦後ではなく戦時中からあったものであったといった話もあったが、今回の事実はさらに根本的な問題であるようにも感じる。
円谷英二生誕時の円谷家
円谷家は麹業者として須賀川市で古くから操業していた商家であり、名家である。7代目当主の勇七は父から名を襲名し、当主となったが、妻ナツを迎え、明治18年、最初に円谷英二の母であるセイが生まれた。ナツにはその後、3人の娘、一人の息子が生まれるが、明治29年、4番目に生まれたのが後の当主の一郎氏(円谷誠君の祖父に当たる)である。セイ13歳の時に白石勇、英二の父を婿で迎え、明治34年(1901年)、英二(英一)が誕生する。明治37年、英二の母セイは次男を死産後、17年のわずかな生涯を閉じた。英二の祖父である勇も既に亡くなっており、英二、一郎氏らへの期待は高かったと思われる。