3、上京・飛行機への夢
大正三年に須賀川尋常小学校高等科を卒業した英二は、十月に上京し、機械製作所に就職して工員となる。しかし飛行機への情熱はさめやらず、会社をわずか一ヶ月で退社し、家族を説き伏せ、羽田にあった日本飛行機学校へ入学することになった。実家ではそんな危険な事はするなと説得したが、英二の決意は固く、家族も考えを変えさせることは出来なかったのである。
遂に憧れの飛行機学校へ進んだ英二ではあったが、当時はまだようやく軍部で飛行機を採用した程度の時代であり、 民間ではさらにレベルが低かった。希望に溢れて訪ねた飛行機学校は、羽田の海岸沿いに立つヨシズ張りの粗末な小屋だった。理想と現実の差に唖然とするばかりであったが、ともかくも飛行機学校での生活はここに開始された。
朝早く倉庫に出かけ、飛行機を出す。滑走路は羽田の海岸である。エンジンはいつも調子が悪く、修理に半日掛かるようなこともザラにあった。また、飛行機学校の収入源は、縁日などに出かけて飛行機を飛ばしてみせることであった。飛行機が飛ばずに袋叩きにあうこともあった。教育といっても現在のような立派な教本があるものでもなく、すべてが手探りなのである。英二らは連日汗まみれ、泥まみれになって動き回った。
しかしながら、英二はこういう事を苦労とは感じなかった。むしろ晩年にはこの頃を回想して、毎日毎日が素晴らしい輝きの日々だったと言っている。好きな飛行機のために打ち込めるのなら、どんなに苦労してもかまわない。英二は飛行機を飛ばすことに明け暮れる生活が楽しくて仕方がなかったのである。
ところが、飛行機学校は長くは続かなかった。ある日、一人しかいない教官が墜落事故で死亡、飛行機学校はやむなく閉鎖されてしまった。英二は呆然としたが、もはやどうにもならなくなった。
失意の英二を家族は立ち直らせようと、東京工科学校(現東京電機大学)へも入学させた。また、知り合いのつてをたどり、玩具会社にも入社させている。
飛行機への夢は消えなかったが、日本に一つしかない飛行機学校が閉鎖されたのでは英二も仕方がない。玩具会社では新しいおもちゃの考案係となり、がんばってみようと考えを新たにしたのである。
英二は持ち前の能力を生かし、ここでスケーターというおもちゃを考案した。これは今日でいうキックボードの原型となるもので、これが大当たりし、喜んだ会社の経営者は英二に特別ボーナスを与えることにした。
突然大金を手にした英二は気が大きくなり、おりしも花見の時期だったので先輩の工員を何人も誘い、花見に出かけることにした。これが、英二の運命を大きく変えることになる。
花見の席で、隣のグループと喧嘩が始まってしまった。まだ未成年の英二は、この仲裁役となって先輩達をなだめにかかった。相手のグループは活動写真の会社らしい。ともかくもこの喧嘩は英二の努力によって事なきを得た。
その時、先方のグループの年長者が英二のところに近寄ってきた。英二が若いのに、喧嘩を仲裁したことに感心したのである。「君はその若さで立派だなあ。名前はなんていうんだい。」30代くらいのこの男はその後英二としばらく話し込み、英二の事を聞いた。上京して飛行機学校へ入学、閉鎖後は玩具会社で新しいおもちゃの考案・・・。男は、敏感に英二の才能を感じ取った。英二が自分の仕事に関係してくれば、必ずや成功すると思ったのである。
この男こそ、英二を初めて映画界に誘った枝正義郎であった。枝正は英二に惚れ込み、足繁く英二の下宿に通ってついには英二を自分が技師長を務める映画会社、天然色活動写真株式会社に入社させてしまうのである。