5、心の支えになった叔父・一郎
所属していた映画会社・天活が国際活映(国活)という別会社に吸収されたことにより、英二の職場は変わった。まだ十代の若い英二は先輩達とともに、新しい職場でまた仕事を始めることになった。
ところが、進歩的な姿勢の天活とは逆に、新天地の国活はマンネリ化したチャンバラ映画を繰り返し製作する旧態依然の会社だった。映画の未来に夢を抱いていた英二は大いに失望した。
また、他の会社から来た新参者に対し、古株の職員は冷たかった。特に、一番若くて東北出身の英二はいじめの対象にされた。「おまえの名前を言ってみろ。」「ツブラヤエーイジ」です。」とたんに大笑いが起こる・・・。英二は本名が英一だが、なまって「エイイチ」と発音できなかったのである。
この様な環境では、映画に興味を失うのも当然だった。英二は次第に望郷の念が強くなり、いっそ映画をやめ、故郷に帰ることを考え始めた。英二は手紙を実家に出し、もし実家で許してくれるのなら、映画をやめて帰郷し、郡山あたりの電気関係の仕事をしたいと申し入れた。電気学校を出た英二には、そういう仕事が向いていると思ったのである。
ゆくゆくは家業を手伝わせたいと考えていた実家では英二の帰郷の意志を歓迎したが、ただ一人、5歳年上の叔父・一郎だけは賛成しなかった。
一郎は英二のこれからを考えた場合、職場がいやだからと安直に転職するような事ではだめだと考えたのである。一郎は英二宛の手紙(大正9年6月6日)で、この様に書いている。
「国元に帰って実直に電気会社にでも勤めることは此方のためには最善の策ではありますが、君の将来のためにはあまり感心せぬ事であるから国活によく勤めることに僕も考え直してお勧めいたします。」
当時の映画界は決して社会に認められているというものではなかった。今日のように華やかなスターがほとんど存在せず、地方を巡業する三文芝居の延長ぐらいにしか思われてはいなかったのである。
しかしそれでも、社会的な倫理観から一郎は英二の転職をいさめ、もう少しがんばってみろとアドバイスし続けた。一緒に暮らしたい気持ちも山々だが、それでは英二のためにはならないと判断したのである。
この手紙の中で、一郎は次のようにも述べている。
「僕と君とは叔父甥の間とはいえ兄弟同様、君も何事に依らず打ち明けて相談し、僕もまた胸襟を明けて相談に乗りたい。」
この様に、叔父と甥という関係であった一郎と英二だが、年齢はわずか5歳しか離れておらず、幼い頃から兄弟のように育っていた。このため一郎は何かと英二の面倒をみて、本当の兄のように英二をかわいがったのである。この二人の関係は一生続き、後に英二が名声を博してからも一郎との連絡は絶つ事がなかった。一郎こそ、英二の生涯の恩人なのである。
一郎に勇気づけられた英二は、ともかくも国活での仕事を継続しようとした。ある日、国活に飛行機からの空中撮影の依頼が来た。飛行機にカメラマンが便乗し、空中からの風景を撮ろうというものである。飛行機がポピュラーではなかった時代、この依頼には職員の誰もが尻込みした。
「僕にやらせて下さい。」飛行機学校出身の英二だけが志願した。この撮影も無事成功し、英二は古株の職人にも一目置かれるようになったのである。