福島民報版・円谷英二伝(6)兵役と帰郷

6、兵役と帰郷

 

 国活で一目置かれるようになったのも束の間の大正10年の暮れ、英二は兵役に取られ、会津若松歩兵連隊に配属されることになった。といっても当時は二つの対戦の間の平和な時期であったので、任期の2年間は故郷に近い同じ福島県の会津若松から離れることはなかった。

 日本は日清、日露両戦争の後、軍備の増設が図られ、日本各地に連隊が結成され配備されるようになった。会津若松では積極的に連隊を誘致する運動を行い、明治40年、遂に兵営舎完成、若松連隊区司令部(若松第65部連隊)が設置されたものである。白虎隊などの勇壮な活躍で知られる会津若松では連隊の設置を大歓迎し、入営の時には市内各所にアーチを架けて祝ったという。

 英二のような性格は軍隊生活にはなじみにくく、相当退屈である旨を故郷の手紙に書いたりた事もあったが、配属された通信班では持ち前の機械いじりの才能を発揮し貢献した。また、銃に興味を持ち、構造を調べたりした成果か、射撃大会では何度も優勝するなどした。この時の銃の研究は、後に軍に協力して教育映画(マニュアル)を製作する際に役立つようになる。

 大正12年夏、除隊となった英二は郷里の須賀川に帰る。懐かしい我が故郷に帰った英二はしばし故郷の家族や友人と旧交を暖める事になった。

 円谷家では、このまま英二が故郷に残り、家業を手伝ってくれれば良いと考えた。叔母のツルは婿養子に一積(かずみ)を迎えており、五歳上の叔父、一郎とともに家業をもり立てていた。ここに英二が加われば、家業はますます繁栄し、充実したものになると思われたのである。

また、この頃英二の叔母が占いに凝り出し、姓名判断を行うようになっていた。

円谷家には英二にとって叔父に当たる一郎がおり、5歳年下の英二とは兄弟のように過ごしていた。一郎と英一では長男が二人いるようでおかしい。それならば、英一(英二の本名)を英二にしてみてはどうか。叔母は「円谷英二」にした場合、画数が格段に良くなることから、 この様に家族に提案した。

 当時は改名が盛んに行われていたわけではないのだが、手紙を出す際、画数の良い名前に変更するようなことはまれにあった。こんなことから「英一」は「英二」と呼ばれるようになったのである。

 当時の須賀川では、方言によって「英一」を「エイイチ」と呼んでくれる人は少なかった。「エーイジ」が「エイジ」になるぐらいのものだった。英二はこれを何ともなく受け入れた。

 一郎と英二。この二人によって円谷家は支えていくものと思われた。英二もまた、しばしは故郷の明るい雰囲気に親しみ、このまま実家で暮らそうと考えた。

 しかしながら、東京で都会暮らしを経験した英二にとっては、田舎での生活はあまりにも刺激が少なすぎた。最初は 懐かしさに浸っていた英二も、毎日の生活を次第に退屈と感じるようになった。家業を手伝いながらも、英二はまた東京の生活を思い出し、飛行学校や映画会社での生活を考えてばかりいるようになった。

 またこの時期、叔母の婿養子、一積(かずみ)が円谷家に同居し、家業を手伝っていた。一積は軍隊上がりの規律正しい男であり、毎朝乾布摩擦をするなど、徹底した軍隊主義を貫いていた。この一積にとっては、映画出身で毎日考え事ばかりしているような英二は怠け者に見えたのである。

 当時、映画関係者の社会的地位は決して高くはなかった。一積は映画人を「河原乞食」と呼んで馬鹿にしていた。自分は軍隊で厳しく鍛え上げられた男であり、仕事に熱の入らない英二は鼻持ちならない存在であった。

 一積は何かにつけて英二に辛く当たるようになった。仕事なども英二に厳しく言いつけるようになった。ただでさえ退屈な日々であったのに、こんな厳しい叔父までいる・・・。英二にとって故郷での生活は退屈なだけでなく、精神的苦痛を伴うものになってしまった。

 一度上京し、都会の風に吹かれた者にとって、故郷の雰囲気には憧れを感じるが、すぐにまた変化の少なさに退屈するようになる。都会を取るか、田舎を取るかは現代人にとっても重要な選択だ。ましてや英二の時代には都会と田舎の落差は大きかった。飛行学校、おもちゃ会社での発明、そして、映画界での活躍・・・。忙しくても夢と希望に溢れていた生活を英二は思い出した。このまま田舎にいてもいいものだろうか・・・。英二は大いに悩むのであった。