8、衣笠映画連盟と狂った一頁
かつての同僚、杉山公平の勧めで京都にやってきた英二は、ここで杉山と再会し、同時に彼が所属していた衣笠映画連盟に入る事になった。
衣笠映画連盟は、後に名監督として名を成す衣笠貞之助によって設立された独立プロダクションであった。衣笠は最初女形として映画界入りしたが、会社に縛られない、自由な映画作りをしたいという希望を持って自ら独立した野心家であった。この映画連盟は松竹の参加団体ではあったが、独自の映画製作を行っていった。
衣笠はまず、時代劇全盛の映画界で「恋」、「寂しき村」という現代劇を製作したが、出来が良くても、当時の検閲が厳しく、猥褻であるとして上映禁止の勧告を受けた。続いて横光利一原作の「日輪」を映画化したが、これは当時の国定教科書では認めていない邪馬台国の卑弥呼をモデルにしたものであり、右翼から抗議を受けたりして上映を中止せざるを得なかった。
この様にユニークな発想が世に受け入れられない衣笠ではあったが、次に企画されたのは、昭和元年、当時欧米で流行したダリなどによるシュール・レアリズムの影響を受けた作品、「狂った一頁」だった。
この作品は、それまでの日本映画にはない独自性を持った作品となった。原作を横光利一、川端康成といった作家が担当した上、撮影は当時欧米で開発された新しい技法を駆使し、フラッシュバックの多用、猛烈に早いカット割りなど、商業的な成功を目指した作品とは考えられないような内容を持っていた。精神病院を舞台として、現実と幻想、過去と現在、平常心と狂気が複雑に交錯し、現代人が見ても70年前の作品とは思えない映像となっている。
この作品に撮影助手として関わった英二は、その内容の斬新さに唖然としたが、同時に映像の可能性にも接し、映画の面白さにますます引かれていった。映像は単に現実を映すだけのものではなく、人間の内面や幻想までをも映像化出来ることを学び、自身が選んだ道に自信を深めていったのである。
この様な環境の中、英二は必死に映画技術を覚えようと、どんな仕事でも自分から進んで行っていた。ここでへこたれては、もうどこにも行くところはない。何とかして、映画の世界で名を上げねばならない・・・。先輩に怒鳴られることもしばしばではあったが、英二は猛烈に頑張って技術を習得していった。英二のがんばりは周囲の注目するところとなり、次第に信頼も深めていったのである。
衣笠貞之助の「狂った一頁」が上映される日がやってきた。衣笠はこの作品に賭けていた。ところが、内容があまり にも難解であるため、一般には全く受け入れられず、上映館もすぐに上映を中止してしまった。借金を抱えた衣笠は落胆し、次の作品「十字路」を製作した後にヨーロッパへ修行の旅へ出かけてしまった。上司を失った英二らは松竹(下加茂)の所属となり、その後も映画活動を続けていった。
「狂った一頁」は、上映された昭和元年には大衆に全く受け入れられなかったが、日本映画史においては絶対に避けて通れない名作となっている。シュールレアリズムの傑作といわれるダリの「アンダルシアの犬」以前に製作された先見性の素晴らしさ、誰もがチャンバラ映画しか撮らない時代にこれだけ前衛的な作品を作れた進歩性、何をとっても素晴らしいの一語に尽きる。後の評論家は、日本映画が世界の水準に達した初めての作品として評価した。チャンバラ全盛の当時には、観客の側にこの素晴らしさを理解するだけの見識がなかったというだけだった。
英二の映画人生の中で、師匠といえるのは前に紹介した枝正義郎と、そしてこの衣笠貞之助が挙げられるだろう。枝正が英二に映画作りの基礎、映画人としての姿勢をたたき込み、英二を映画界に定着させる役割を担ったとすれば、衣笠は映画の表現力を生かして社会的な問題を摘発するような前衛性と、ときには常識の枠を踏み外すような冒険性によって英二に映画作りの志を享受し、英二の映画における方向性を示したともいえる。
衣笠と英二はその後も交際が続き、戦後、英二が名を成した後にも何度か英二を訪ねて来ることがあり、旧交を暖め合った。それは英二の最晩年まで続いた。英二にとっては生涯の師匠だったのである。