福島民報版・円谷英二伝(11)映画会社の遍歴

11、映画会社の遍歴

 

 無声映画の時代から、映画が音付き(トーキー)になる事は、英二のような技術者の活躍の場が広がった。そしてそれは、他社からも英二らの技術に注目が集まる結果となった。

松竹がトーキー映画の製作を始めた頃、ライバルである日活にはトーキーの技術がなかった。そこで、日活では犬塚稔をリーダーとする英二らのグループに目を付け、給料を倍にするという条件でヘッドハンティングを図ったのである。犬塚は引き抜きの誘いのあった事実を松竹に告げたが、「君はそういうことを言って給料を上げさせようとしているんだろう。」という上司の言葉に腹を立て、英二らを伴って日活移籍を決行した。

 当時の主な映画会社は京都に隣接していたため、英二は引っ越す必要もなかった。また、映画人は自分の腕一本で業界を渡っていくという職人的なところもあり、会社が変わるということはさほど抵抗はなかった。英二らは林長二郎にかわり、当時売り出し中の大河内伝次郎を主役にした作品を製作していった。

 ところが、英二らの移籍は新しい職場では歓迎されなかった。給料が倍である上、自分たちには出来ないトーキーの技術を持っていることは、日活の古株が面白いはずはなかった。英二らは事あるごとに嫌がらせを受けた。また酒の席ではいつでも「あんた達は給料を倍もらってるんだから、俺達の分も払え。」と言われるのが常だった。

 さらに、日活も松竹と同様、映画を進歩させるような新技術に関しては全く興味を示してくれなかった。この当時英二はスクリーン・プロセスの研究を行っていたが、これも自費で賄うしかなかった。給料が倍になっても、生活は楽にはならなかった。

 会社で時代劇を撮影している時でも、英二はかつての師匠達の言葉を思いだし、「いつかは海外作品に匹敵するだけの日本映画を・・・」という希望を持っていた。忙しいさなかであっても、外国映画を見に行くことは忘れなかった。日本の映画は、俳優の顔をただ明るく撮るばかりで、映像の中に深みが感じられることがないと思った英二は、暗い画調の中から味を出すローキーという技術を心がけていた。

 しかし、これも旧態依然の映画界では通用する話ではなかった。いくら会社に新技術の重要性を説いても、「君、そんなことは外国映画にまかせておけばいいんだ。」と怒鳴られる始末であった。

 この様な時、ある外国映画が英二の心をとらえた。1933年の「キングコング」である。

 「キングコング」は、南洋の孤島で発見された全長10メートルものゴリラがニューヨークで暴れる架空の物語であ る。現実にはあり得ない映像を製作するため、ウィリス・オブライエンという技術者は、模型の怪物を少しずつ動かしながら一こま一こま撮影していく方法を取り、この作品を製作した。

 この映画は英二を圧倒した。自分が志していた映画技術においては、こんな事が出来るのか?一気に夢が広がった英二は会社に頼み、この作品のフィルムを取り寄せ、研究を重ねたという。

 海外で意欲的な作品が製作されているのに、英二の仕事は相変わらず時代劇の撮影であった。「浅太郎赤城颪」とい う作品において、英二は思い切って作品の画調を暗くし、海外映画張りの画調を追求したが、これが日活幹部の不評を買い、大いに叱責される結果となった。自分の姿勢が評価されないことに不満を持った英二は思い切って日活を退社することにした。犬塚監督は英二を辞めないように説得したが、英二はがんとして受け入れなかった。時代劇映画との別れであった。

 こういう英二を受け入れる会社もあった。マサチューセッツ工科大学出の大沢善夫率いるJOスタジオである。海外出張経験の豊富な大沢は映画界の世界的な変化を敏感に感じ取り、技術者としての英二を高く評価した。大沢は英二を撮影技術研究所主任として招き、英二に働きやすい環境を提供したのである。英二としては、ようやく理解者が現れたという感じだった。

 英二はこの様にして各映画会社を遍歴したのだが、常に映画技術の進歩を考え、研究を重ねていた。「キングコン グ」の様な作品は、まさにその特撮技術の集大成といった印象だが、「特撮」とはっきり言える技術は、昭和15年の「海軍爆撃隊」に始まる戦争映画によって幕を開けるのである。

 

 

Topics

 この時期に英二が見た「キングコング」は、英二にとって重要な作品となった。フィルムを取り寄せて研究したのだが、これは昭和29年、ゴジラによってこの分野の技術者と して名声を得た後もずっと続き、生涯に渡ってこの作品を見ていたという事である。後に助監督として英二を助けた有川貞昌、中野昭慶らはいつもロケの時にこの「キングコング」の研究に付き合わされた。英二にとってこの作品は、単なる研究対象ではなく、特殊技術を志すようになったきっかけとなる「心のふるさと」的な役目を持っていたともいえるのである。