18、「ゴジラ」、大ヒット!
円谷英二が持てる力を振り絞って製作した「ゴジラ」は、担当した特撮部分を完成後、本多猪四郎監督の本編部分との編集が終わり、10月、東宝で試写会が行われた。
主演の宝田明とヒロインの河内桃子はこの時、完成した「ゴジラ」を見て驚愕した。「こんなでかい化け物だったの か!」俳優が演技する本編の撮影では、どんな映画か見当もつかなかった。試写終了後、映写室の視線は、すべて英二に集中した。「すごいものを作ったね!」 これが周囲の偽らざる感想であった。この作品に携わったすべての人は、ここまで特撮場面がすごいとは想像していなかったのである。
昭和29年11月3日、一般上映の日は迫った。英二はこの時まだ不安であった。この作品が一般に受け入れられるかどうか・・・。英二は密かに渋谷東宝の前に出かけ、観客の反応を見ることにした。
英二が映画館へ近づいたそのとき、不安は一瞬にして杞憂に変わった。「ゴジラ」みたさの観客は、映画館の前から延々渋谷駅まで並んでいたのである。こんな長い行列を見たことはなかった。
日本初の怪獣映画「ゴジラ」は、この様にして多くの観客に受け入れられ大ヒットした。ストーリーは当時の原水爆 実験を背景に、主人公らの三角関係を描くなど、複雑な内容を持つ作品であったが、ほとんどの観客は視点はただ、ゴジラのすさまじい暴威に注がれた。作家の 三島由紀夫は「文明批判の精神がある」と評価したが、観客はやはり、ゴジラの暴れっぷり以外はほとんど見えなかった。
この作品を転機に、英二の周囲は一変した。誰もが英二の実力を評価するようになった。「ゴジラ」は大ヒット、その上英二は日本映画技術賞を受賞した。英二はついに認められたのである。
英二の技術は、この時に急に上達したものではない。すべては長い下積みの、時には自費で研究開発する様な努力を 重ねた結果であった。戦時下では「ハワイ・マレー沖海戦」において、特撮は世界最高の水準に達していたのだが、史実を再現する戦争映画の中では、観客はそ れをすべてすばらしい戦果としてしか評価しなかった。今度は違う。こんな怪物は実際にはいない。この時初めて、特撮は誰もが評価する表舞台に出たのであ る。
そして「ゴジラ」は、思いがけない至福を英二や東宝関係者にもたらした。海外にも配給され、世界各地でも大ヒットしたのである。
当時、外貨獲得は日本発展の重要な産業基盤となった。ゴジラを初めとする怪獣映画は海外でも大人気だったため、 1ドル360円の時代においても、外貨の有効な稼ぎ手として英二の特撮映画はますます製作されるようになった。昭和20年代には、日本映画が海外で次々と グランプリを受賞し、日本映画は世界で評価されたが、興行的には成功したものは少なかった。特撮映画だけは例外だった。製作中から海外のバイヤーから買い 手がつき、催促される有様だった。
英二は若いころ、最初の師、枝正義郎と、京都時代の師、衣笠貞之助の二人に、日本映画が海外で通用するようになる将来の夢をいつも聞かされて育った。「ゴジラ」の成功はそういう英二の二人の師匠から託された夢を実現したという側面もあったのである。
ただ、興行的成功とは裏腹に、当時のマスコミの論調はこの怪獣映画には決して甘くはなかった。「特撮だけが売り物の珍品」、「キングコングのような愛嬌がない」など、プレスはこの作品を決定的に叩いた。
しかし、いつの世も新しいものはまず大衆に評価され、社会を変えていく。「ゴジラ」は文芸作品ではなかったが、広く大衆に評価された。子供たちはゴジラの勇姿を常に語り合うようになっていった。
同じころ、やはり大衆に評価されてきたものに、プロレスがあった。プロレスは相撲界の体質から飛び出した力道山 が、次々と登場する悪い外人を空手でバタバタと倒し、一躍人気者になった。昭和29年当時、旧来の思想様式や観念を根本的に変えるように登場したのが怪獣 とプロレスである。両者に共通するのは、大衆に受け入れられ、あっと言う間にに発展していった点だった。
今日、ジャイアンツの4番打者である松井選手は「ゴジラ」のテーマで登場する。彼が東京ドームで打席に向かう と、「ゴジラ」のメインテーマが流れる。わかる人にはわかるが、昭和29年、すなわち最初の「ゴジラ」のサントラをそのまま使用しているのである。現在プ ロ野球では一番大衆に訴える力を持っていると思われる選手が、50年以上も昔の音楽で登場するのはいささか奇妙であるが、これは当時のこの作品の影響力の 大きさが今でも続いている様にも感じられる。