福島民報版・円谷英二伝(22)ウルトラマン登場

22、ウルトラマン登場!

 

 「ウルトラQ」の製作が終了した頃、まだテレビで放送が始まっていない時に、円谷プロの若いスタッフはもう次回の番組の企画を考えていた。それが「ウルトラマン」である。

 英二の息子たちが中心となった円谷プロの若いスタッフは、新しい番組を製作する情熱と気概にあふれていた。今度 は、宇宙からやってきたヒーローもので行こう、という発案は結実し、東宝時代から英二に協力していた彫刻家の成田亨が最終的にウルトラマンのデザインを製 作した。

 折からの怪獣ブームの中、ウルトラマンは昭和41年の8月、前回お伝えした「ウルトラマン前夜祭」に続いてブラウン管に登場した。

 正義の味方が活躍するドラマはそれまでにも数多くあったが、巨大なヒーローが毎回怪獣をやっつける番組は画期的 であった。視聴者はウルトラマンの活躍も注目したが、毎回登場する怪獣にも大きな興味を示した。「ウルトラQ」では怪獣の出てこないお話もあったが、ウル トラマンが出る以上は、必ず巨大怪獣が登場する。これが人気を呼ぶ秘訣となったし、これで人気が出ないわけはなかった。

 ウルトラマンは単純明快な勧善懲悪のドラマとは違い、怪獣は自らの生存権を主張するようであり、宇宙人は別な人類としてその存在感をアピールした。脚本家はユニークな祖ラマを提供し、制作側は必死で現実にはあり得ない画面を創造するといった好循環が生まれた。

 ウルトラマンはウルトラQに引き続き、脚本家、監督が複数存在し、製作も何班にもわかれて別々に行われた。これ までほとんど実績のない若手のスタッフは、ここで初めて番組の仕事に入る人も少なくはなかったが、職場のハイ・ヴォルテージな雰囲気に鍛えられ、うなぎ登 りの高視聴率によって次第に自信を付けていった。

 テレビでの英二の立場は、「監修」というものだった。英二は若いスタッフが成長していくように、時には厳しく指 導を行っていった。試写で、自分の気に入らないカットがあると、たとえ納品が明日に迫っていても、「ダメ、撮り直し!」と命じた。この様なとき、スタッフ は徹夜で撮影しなければならなかったのである。

 英二は自分の会社においては、息子たちをはじめとする若いスタッフたちが、映画やテレビの世界でも何とかやって いける様、プロの意気込みをたたき込んでいたのである。自分が若い時分にした苦労を思い出し、この世界で生きていくプロ根性を教えていたのである。英二が 撮影所に入ってくると、スタッフにピンと緊張が走ったという。いい加減な仕事は出来ない環境が出来上がっていった。

 円谷プロには、かつての英二の弟子たち、戦後、英二のもとへ集まった人々、そして息子たちがテレビの世界から連れてきた若者たちと、多くの未来を嘱望されたスタッフが集まっていた。これらの人々が切磋琢磨し、最高視聴率が50%にも近づく番組を製作していったのである。

 信じられない様な人気に、テレビ局はさらに番組の延長を依頼した、しかしながら、全く手抜きを許されない連日の作業には、さすがの若者たちも次第に疲れを見せていた。結局ウルトラマンは3クール(全39話)で打ち切りとなり、他社の作品が後番組となった。

 映画界から転じてテレビ作品を製作した英二は、その手法を全く映画と同様に行って一つ一つのドラマを製作した。 テレビ用のフィルムは16ミリなのに、映画張りに35ミリで製作したり、芳しくないカットはいくらでも撮り直ししていったために、視聴者からの人気は抜群 であったが、毎週一つの番組として納品しなければならないスタッフは大変であった。英二にはテレビなりの割り切りが出来なかったのである。

 「ウルトラマン」の最終回、第39話「さらばウルトラマン」は、強烈な侵略者に倒されたウルトラマンが、同僚と ともに故郷の星へ帰っていくというドラマである。M78星雲に帰るウルトラマンを見て涙をこぼし、星空を見上げた子供たちは多かったという。当時の子供た ちにとって、ウルトラマンは全くの別世界であった。東映で作られる後番組(キャプテン・ウルトラ)は、明らかに英二の色はなかった。

 後年、この時の子供たちが大人になり、当時の思い出を語り合うとき、この最終回で星空を見上げた人々が非常に多かったことに驚かされた。今日のように子供番組が反乱している時代ではなかったが、ウルトラマンは世代の共有体験となったのである。