福島民報版・円谷英二伝(24)望郷の思い

24、望郷の思い

 

 英二の映画人生は、円谷プロが設立されて、テレビの仕事が増えたにも関わらず、東宝での特撮映画の製作本数が倍増し、ますます多忙を極めるようになっていた。

 年間5、6本製作する映画に加え、テレビでは毎週新しい作品が公開される・・・。60を越えた英二は疲れ果てていた。もうやるべき事はすべてやったようにも感じられることがあった。

 こういう時期、英二は度々故郷・須賀川のことを考えるようになっていた。助監督らの話によれば、撮影班がロケで山間部へ出かけたときなどに、山々を見ながら「須賀川を思い出すなあ。」と呟く様な事が多かったという。

 忙しい日々の中で、須賀川への想いはつのるばかりであった。故郷で行われる同窓会には、毎年必ず訪れ、本人もそれを一番の楽しみにしていた。

 須賀川で愛情深く育った英二は、やはり故郷のことが一生忘れられなかった。幼い日に夢をはぐくんだ時代には、周 囲の人々の理解を得て、自分の世界にのめり込むことも出来た。映画界で成功してからは、頻繁に帰省して映画界の話を家族にするのを楽しみにし、晩年には昔 懐かしい同窓生に多く会い、旧交を暖めた。戦時中は軍の許可を得て飛行機を借り、故郷まで飛んできたこともあった。英二はどんなに忙しくとも、須賀川のこ とを忘れなかったのである。

 また、「ゴジラ」以降、特撮の腕が認められ、有名になってからは、須賀川から上京し、一度は英二の撮影所を見せてもらいたい、故郷の偉人の仕事ぶりを見たい、という人も多かった。英二は須賀川から来た人々を歓迎し、映画会社の食堂で大盤振る舞いして歓迎した。

 晩年、英二は自分の孫たちと会うのを楽しみにしていた。何よりも孫がかわいかった。子供のような純真な心をいつまでも忘れなかったという英二は、孫たちを自分の分身の様に感じ、須賀川で過ごした幼い日を思い出すことが多くなっていたのかも知れない。

 少年時代の英二の親友に羽田徳太郎がいた。いつも英二といっしょに遊んでいた一番の友人だった。英二は須賀川を 訪れると、この羽田の家を訪ね、孫たちにサインをしてやったり、水の入ったコップに牛乳を少しづつ垂らし、火山が噴火するように見える様子を見せて、「こ れが特撮なんだよ。」と、特殊撮影に関する解説までも行ってみせたという。

 

 孫が誕生してからの英二の子供好きは徹底していた。ある日、少年雑誌に怪獣のぬいぐるみから、中の人間が首だけ 出している写真が載った事があった。これを見た英二は真っ赤になって怒った。「子供の夢を壊すような事をするな!」英二は映画の舞台裏を見せることを嫌 がった。子供が失望すると思ったからである。

 また、昭和42年「キングコングの逆襲」という作品では、アメリカからの注文で、恐竜のような怪獣が口から血を 吹いて絶命するシーンを撮ってくれという注文が来た。子供が見ていることを考え、そのような残酷なシーンは撮れないと反対した英二だったが、海外からの注 文には逆らえない。

 一計を案じた英二は、その場面を血ではなく、ブクブクを泡を吹き出させて納品することにした。自分の信念は曲げられなかった。

 「ウルトラQ」が好評で、「ウルトラマン」の放送が始まる頃、テレビ局では番組に勢いを付けようと、撮影に使う ぬいぐるみなどを借り、遊園地などでデモンストレーションを行うことを提案した。子供たちの憧れである怪獣を間近に見せ、番組のいっそうの宣伝を計るのが ねらいだったが、英二はこれも反対した。撮影に使う小道具などを安易に見せてしまうのでは、やはり子供たちの夢を奪う行為につながると思ったのである。し かしながら、これもテレビ局の押しの一手で認めてしまった。

 英二は賛成できなかった怪獣のデモンストレーションは、その後デパートなどで頻繁に行われるようになり、苦し かった円谷プロの台所を少しは潤した。英二存命中で最大のイベントは、昭和○○年、会津若松市で行われた会津博の時のものであった。パンフレットは、鶴賀 城の隣に古代怪獣ゴモラが写っているものであった。英二が若い時分、兵役で二年間赴任した会津若松市を、今度は英二によって作られた怪獣たちが表敬訪問し た。

 晩年、自らの生み出した怪獣が子供に大人気であることを知り、子供に深い愛情を注いだ英二だったが、その根底にあるものは、子供の姿を見る度、自分が少年時代、楽しく過ごした須賀川を思いだしていたのかも知れない。