ノエ乾のヴァイオリン・リサイタルが6月11日、東京文化会館で行われた。会場は上野にあり、上野駅公演口の真ん前に入り口があった。私は湯島方面から向かったので会場を探すので苦労した。だんだん夕闇が迫る中、不忍池をバックに間に合わないのではと不安になったが、まあなんとか大丈夫だった。会場受付には知った顔が何人もいて安心した。
会場は会館小ホールだったがそれでも結構人が入る場所だった。さすがは東京で、コンサートホールもムード満点。女性客が多く、おおよそ八分の入りだった。だんだん時間が迫り、二人のパフォーマンスへの期待が高まっていく。
やがて時間になり、伴奏のマリオ・へリングを従えてノエがステージに登場する。二人ともハーフで、ばんだい国際音楽祭を通じ、私と何度も会っている。マリオも昨年は音楽祭に登場し、見事な演奏を聴かせていた。
最初の曲はベートーベン。初期の曲で、それほど盛り上がりもない。なんだかお上品なコンサートの始まりみたいな雰囲気だった。
しかし、次のシュルホフはエネルギー全開だ。20世紀の難解な曲を、息の合った二人が鋭く掘り下げていく。シュルホフは彼らのCDで初めて知った作曲家だが、ナチスに迫害され収容所で48歳の生涯を閉じた悲劇の作曲家である。そういう人の曲を、二人はCDで聞いたときよりはるかに情熱的に、ドラマチックに演奏していく。このメロディー的にも難解な曲が、二人の演奏によって感動的になっていく様は見事だった。演奏が終了すると、万雷の拍手が待っていた。
20分の休憩の後、ヤナーチェク、ラヴェル、シマノフスキと続く。ヤナーチェクとラヴェルは知っているが、シマノフスキって誰だ?パンフレットによると、ポーランドの作曲家であり、ボリシェビキに邸宅を襲われたりしているらしい。一曲目のベートーベンを除き、それぞれ二度の大戦の最中、辛酸をなめた作曲家の曲ばかり取り上げたコンサートである。20世紀の音楽らしく、不協和音の様に響くところも多いのに、ノエらの熱演で感動的に聞けたのがすごかった。二部でのハイライトはやはり最後に取り上げたシマノフスキだと思う。ヤナーチェクの民族音楽的な曲調(正直に言うとシンフォニエッタしか知らない)、ラヴェルの色彩豊かな作品を凌駕し、シマノフスキの叫びが100年の時を経て現代によみがえったようだ。汗びっしょりのノエは体を振り乱しながらすさまじい表現力で小さなヴァイオリンからいろいろな音色を引き出した。
アンコールがあり、彼らは三度ステージに呼び戻された。曲はすべてクライスラーだった。難解な曲が多かっただけに、アンコールは誰もがメロディを知る曲ばかりで、難しい音楽の世界から、現実に引き戻される思いだった。終了後に彼らはサイン会があり、忙しそうにしていたので、私は挨拶せずそのまま一人でバーに直行した。
コンサートのセットリスト
2009年以来、ずっとノエを追いかけているが、この日のコンサートがベスト・パフォーマンスだったと思う。あの複雑な曲を二人が一糸乱れず情熱的に構築させていく姿は見事という他はない。これだけ難しい曲なのに、ミスらしいものはどこにもなかった。
ノエ本人が語りかけていたように、本日のナンバーは最初のベートーベンを除き、みな第一次世界大戦の頃に作曲されたものだった。メロディアスなロマン派の音楽ならばわかるが、複雑な20世紀音楽で聴衆を感動させてしまうことはかなり難しいと思う。それをやり遂げたのだから立派である。シュルホフ、シマノフスキという作曲家達は、ほとんど知られていないと思う。しかし、それらの曲に光を当て、見事に演奏してしまうところにノエとマリオの真の実力がある。二度の世界大戦の最中、苦悩を背負った音楽家達が身を削る思いで作曲した作品を、当時の苦悩が乗り移ったかのようにノエはヴァイオリンの音色に悲痛な叫びを現して表現した。なんだか最初のベートーベンは、後の曲のためのウォーミング・アップだったようにさえ思える。20世紀の音楽はそれほど知られておらず、プログラムに入れるのをためらうミュージシャンも多いが、あえてそれらをメインとし、聴衆を感動させてしまうのだからすごい。私自身、20世紀音楽にこんなに感動するとは思ってもいなかった。
ノエ・乾と最初に会ったとき、彼はストラデヴァリウスでバッハを弾いていたが、勿論それも素晴らしかった。その後も私の会社主催のコンサートなどで、私が希望する曲などを演奏してくれたけれど、彼にはこの日のような20世紀音楽が合うような気がする。この才能溢れるアーティストには、自分のやりたい曲を自由にやってもらうのが一番いいのではないかとも思える。
この日演奏した曲は、いくつかは既に販売されていたCDに入っていたが、やはりライブの演奏は格段に違う。CDを聴いたとき、ここまで壮絶な演奏にはなっていなかった。ノエはフルトヴェングラーのように、ライブでこそ実力を発揮する演奏家なのだと思った。
ほとんど知られていない作曲家に光を当て、それを見事に感動的に演奏してしまうところに、彼の真骨頂があるのだ。