かぐや姫はこんな映画だった

「かぐや姫」はこんな映画だった

 生誕120年 円谷英二特別上映会

 かぐや姫上映会

 2022年1月22日、須賀川文化センターで「生誕120年 円谷英二特別上映会」というイベントが行われた。最近英国で発見された、円谷英二が1935年にカメラマンとして参加した作品、「かぐや姫」の上映会である。

 そういう作品が製作されていたことは知っていたし、拙著でもキネマ旬報の情報などを参考にこの作品について書いていたが、本物を見たことはない。昨年、同作品が発見されたというニュースが流れ、東京では上映会も行われていたので、私は市の担当職員にぜひ須賀川でも上映会を・・・とお願いしていたが、それが遂に実現した。どのような経緯で実現したのかはともかく、大変嬉しいことである。

 

突然登場した「ウルトラマン」

 当日は午後1時と3時に二度上映会を行ったが、私は1時の方に行った。30分ほど前に到着すると、会場の文化センターは既に人がだいぶ集まっていた。20分前くらいからスクリーンにいろいろなウルトラマンが映された。円谷プロの宣伝である。ウルトラQから、最近の私が全くわからないウルトラマンまで登場した。

 会場は実にいろいろな人がいた。須賀川市民が集ったという印象だ。これは円谷英二に関する市民活動があらゆる層に浸透してきた証拠ととらえることもできるなどとも感じた。約150名くらいだったと思う。

 さて定刻になると、音楽が流れ、司会者の女性が登場した。すぐに映画が始まると思っていたので驚いた。司会者は本日の特別ゲストを呼び出した。それは、古谷敏氏だった。

 左手から真っ白なスーツを着て古谷氏は登場した。古谷氏といえば、初代ウルトラマンのスーツアクターであり、「ウルトラセブン」ではウルトラ警備隊のアマギ隊員として知られている。突然の「ウルトラマン」登場に会場はどよめいた。私も知らなかったし、事前の告知があったのだろうか。

 ステージ中央の椅子に座った司会者と古谷氏は、いろいろと話を始めた。東宝に昭和35年入社、その頃は黒澤明とともに円谷英二は東宝の稼ぎ頭で、雲の上の人だったこと、ウルトラマンのポーズは当時、東宝内にあった空手道場に通っており、そこからヒントを得たこと(本人の話)、「ウルトラQ」でラゴン、ケムール人のスーツアクターとなり、大変息苦しかったので最初ウルトラマンはやりたくなかったこと、ウルトラマンが円谷監督から何事か話しかけられている有名な写真があるが、あれは実は「古谷、目、見えるか?苦しくないか?」と心配されていたことなどである。

 最後のちょっとだけ「かぐや姫」について語り、当時既に合成の技術があったこと、カメラを移動させながら撮影していることなど、円谷監督の先見性を賞賛した。

 正直、1935年作の「かぐや姫」と、古谷敏氏との関連はほぼないといっていい。ただ、では誰ならふさわしいのかといえば、もはや当時のスタッフはおらず、強いてあげれば映画史に詳しい方くらいで、それだと専門的な話で一般の人々は付いていけないだろう。関連はないが、話題性はある。古谷氏を呼んだのは、そんなところだろう。

 円谷英二

「かぐや姫」全容

 さて、円谷英二が1935年に撮影した「かぐや姫」は、こんな感じだった。

 冒頭、アニメの映像が流れ、かぐや姫のタイトルが出る。この頃からこれだけのアニメがあったのかと感心する。この後のスタッフ商会などは英語版になっており、原形をとどめていないが、それでも円谷英二の名前は紹介されている。

 70分以上の映画を33分に短縮し、しかも海外の映画(イギリス人にとっては)で内容が理解されないと思ったのか、最初からいきなりこの作品のあらすじを最後まで全部紹介する。従ってこの作品は映画を見ながら先のストーリーを読むようなものではない。

 やたらと歌が挿入され、登場人物達が歌いまくる。ミュージカル仕立ての作品である。ある夫婦が竹藪で光り輝く竹を発見し、中から女の子が出てくる。この子はかぐや姫と呼ばれるようになり、美しく育つ。この夫婦には先に男子が生まれており、将来は夫婦になる約束をしている。いわば許嫁である。ところが、かぐや姫の美貌に惚れ込んだ時の宰相の息子二人が権力にものをいわせ、二人のうちどちらかの妻に迎えたいと申し出る。困り果てたかぐや姫だが、宰相に恨みを抱く陰陽師が切り抜け策をアドバイスする。かぐや姫は月の使いであり、中秋の日に月へと舞い戻るとの噂を流す。宰相らは武装して月からの訪問者を追い返そうとするが、折からの月蝕により慌てふためく、みなが昇天、昇天と騒いでいる間に、かぐや姫は翁夫婦、そしてその息子の許嫁と都落ちしてこれを逃れる、というもの。

 円谷特撮により、月よりやってきた使者が壮大に描かれると思っていると肩すかしを食らうが、それでも特撮場面はいくつかあり、円谷英二らしさを感じる。

 

活躍する円谷特撮

 作品中、大昔の建物は随所にミニチュアが制作されている。これはなかなかの出来である。また、スクリーンプロセスと思われる場面もあった。侍達が幻想を見る場面では空に天女が舞い、ここは合成で撮影されている。完全版を見たわけではないので本当のところはわからないが、映画の流れが大変スムーズである。保存状態が良いためか、同時期に制作された「新しき土」と比較しても出来は良いと思われる。円谷監督の撮影は熟練の冴えを見せ、随所にこういった作品にふさわしい、幻想的な美しい場面が見られる。後述するがこの作品は「音」を聞かせることを主眼に作られた作品なのに、映像もなかなか素晴らしい。

 かぐや姫

「音」を聞かせる映画

 この作品は日本最初のトーキー(音入り)映画、「マダムと女房」からわずか4年後の作品であり、映画に音が付くならとばかり、出演者に歌を歌わせてミュージカル風に作られた映画である。そういう趣旨であれば、この作品の前にも「百万人の大合唱」という映画がJOで制作され、もちろん英二も参加している。かぐや姫の翌年には円谷英二が自ら本編の監督を務めた「小唄礫・鳥追お市」という作品も公開され、人気歌手の市丸が歌いまくる。要するにこの時代はスクリーンから音が出ることを生かし、強調した作品が量産されていたようだ。長らく無声映画の時代が続いた中、映画で音が出るのは大変喜ばしいことであったに違いない。「かぐや姫」も新日本音楽映画と銘打たれ、歌手の藤山一郎などミュージシャンが出演し、楽団も活躍する。世界のトーキー第一作は「ジャズ・シンガー」という映画だった。音が出るなら、思いっきり音楽を聴かせましょうというわけだ。1980年代、MTVが登場し、今までは音だけだったミュージシャンが映像も出るようになり、盛んにテレビでロッカー達が俳優のように振る舞った時代があったが、そのときの衝撃よりもはるかに大きな変化、進歩であったに違いない。

 

監督、田中喜次

 「かぐや姫」監督の田中喜次(たなかよしつぐ)は1907年生まれ、東宝の前身であるJOに入社するとアニメ製作に尽力し、児童映画の製作なども行う。「かぐや姫」は初監督作品だった。その後はほとんど監督をすることはなく、戦後はまたアニメ作品に関わるようになる。「かぐや姫」という題材自体も子供向けといえ、子供のための映画に情熱を傾けた映画人生を送ったともいえる。作品冒頭のアニメ映像も、同監督がアニメに造詣が深かったことの表れとも取れる。キネマ旬報社が発行した日本映画監督全集によれば、作品製作の動機は当時公開された「会議は踊る」(1914年のナポレオン戦争後のウィーン会議を題材としたオペレッタ映画 1934年日本公開)を見て、同様な作品を作りたくてたまらなかったそうである。

 

酷評された映画

 ただ、当時のマスコミは同作品を酷評している。キネマ旬報、昭和11年1月1日号にはこのような記載がある。

〇新日本音楽映画をJOが作ろうと志したのは甚だ結構なことであり、題材に竹取物語を選んだこともそうした意図からは当然であったが、こうした新日本音楽映画といったものを作ることは、実はそう容易なことではない。

〇レコード歌手を主演者としたくらいのことでは音楽映画は作れはしない。

〇こうしたものにあっては、「映画」であることは第二とするならばこれでも良かろうが、制作当事者の自慰的満足以上に出ようとするのであるならば、まず何よりもしっかりした、こうしたものを作るにあたる心構えを持たねばならぬ。古典風な題材を、古典風なセットの内で、古典風な音楽で描くというくらいのことで、こうしたものを作ろうとすることは無駄に近く、こうしたものからは「美しき絵と音楽」を顧客の誇ろうとするのはあまりにも人もなげなあり方である。

〇これは一言にして申せば「映画」とは言い難い。監督者田中喜次はほとんど監督者としてはそうしたものと思えるものを示さないが、演技監督と美術監督と音楽監督に制せられての、彼の苦心は察するに難くないが、それでも少しは映画的な運びというものを狙って欲しかった。愚しさの中で、監督者だけは努力しているというくらいにはありたかった。

〇これはこうした古典音楽映画を作りたいという意図、唯それのみがかろうじて買えるものであった。

 ただ、キネマ旬報の論調は戦前、戦後を通じて総じて批判的であり、特に新しいものに対する批評は厳しい。昭和29年のゴジラについても酷評されている。これを持って同作品がダメだとすることはできない。

 円谷英二は映画人生を通じて常に当たらしいもの、今までにないものを追求している。同作品もいわばその一環である。こういった評価は、本人にとっては慣れっこになっていたかも知れない。

 かぐや姫2

出来に不満の円谷英二

 「かぐや姫」は当時のキネマ旬報などを見る限り、話題作として大々的に宣伝され、JOも大きな期待をかけていたのかも知れないが、円谷英二は後に同作品を「つまらない」と評している。須賀川での上映会では「かぐや姫」直後に「現代の主役 ウルトラQのおやじ」(1966年、TBS.番組。怪獣ブームのまっただ中、怪獣ブームを作り出した中心人物、円谷英二の日常を取り上げたテレビ番組)が上映されたが、この中でも英二は家族との会話の中で同作品に触れており、「素人ばかり集まってきた。面白くなかった」などと述べている。これは、監督の田中喜次も監督初作品、出演者も本業は歌手など素人が多かったことを指すと思われるが、英二には、自分ならもっといい作品にするのに、という気持ちがあったのかも知れない。

 英二は戦後もかぐや姫にこだわり、何度もかぐや姫の作品化を考えていたことで知られている。その英二が唯一関わったかぐや姫が同作品だが、音楽映画にもかかわらず、映像にかなりこだわっていることからも、それがうかがえる。

 ただ、現存する作品はイギリスで偶然見つかったものであり、70数分の作品を33分に短くしており、短縮版というよりはダイジェスト版然としており、正直概要はつかめない。ともあれ、貴重な映像であることは間違いなく、若き日の英二が映像に凄まじい情熱をかけていたことを、現代に伝える貴重な資料である。わずかな映像であっても時代を超えて情熱が伝わってくる。円谷英二の故郷、須賀川で上映していただいたことに感謝申し上げたい。