追悼 宝田明氏

追悼・宝田明氏

私を怪獣の世界へいざなった人

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      宝田明氏の死去を報じる新聞

 2020年3月14日、東宝で活躍した俳優、宝田明氏が死去した。87歳だった。宝田氏は1934年生まれ、父親の仕事で朝鮮半島から満州へ移り終戦を迎え、終戦後日本へ戻った後に1953年、東宝に入社、翌年、「ゴジラ」で主演となる。

 

「モスラ対ゴジラ」の衝撃

 私は4歳のとき、映画館の前で見たスチール写真を見て衝撃を受け、ある日突然怪獣の魅力に取り憑かれた。「モスラ対ゴジラ」である。写真には見たこともない怪物が写っていた。特に、海岸で両手を広げ、目をかっと見開いた怪物には、なにか、この世に生まれて遂に見つけるべきものに出会った様な衝撃があった。これはゴジラといった。

 数日後、父にせがみ、映画館に連れて行ってもらった。映画は、スチール写真から私の想像する世界をはるかに凌駕する驚くべき世界だった。いきなりすごい台風の映像(全部特撮!)、干拓地から登場するゴジラ、名古屋の街に徐々に近づき、町を破壊する。そこにやってきた平和の使者モスラ。決闘の末ゴジラが勝つも、幼虫が生まれてゴジラに仕返しをする。最後に流れる平和のテーマ・・・4歳の私には衝撃が大きすぎて、問答無用に引きつけられる宗教みたいなものだった。こんな映像を見せられては、その後、怪獣に夢中になるのはむしろ当たり前だった。もし、私が見た最初の特撮映画がモスラ対ゴジラでなかったら、後に本を書くほどは夢中にならなかったと思う。

 この作品で主役を演じたのは、宝田明だった。新聞記者の宝田氏は中京地区への台風襲来からドラマの導入部で活躍する。この頃からやたらテンポの良くなった本多猪四郎演出に実に合っているが、4歳の私にもわかるように、展開が早い割には非常に丁寧にストーリーが展開していく。改めて見てみると、この作品は、全編を宝田氏がガイドしているような印象もある。私は、宝田氏の案内によって怪獣の世界に連れて行かれたのではないかと思う。

 

宝田氏からの電話

 今から20数年前、私の会社の電話が鳴った。事務員は、

「社長、社長に電話です。なんだか怖そうです」といっていた。私はクレームの電話かと思った。

「もしもし」

「鈴木さんですか?」

「そうですが」

「ああ、宝田です」

 これはまさに、宝田氏からの電話だった。実はこの頃、須賀川青年会議所で円谷英二の活動を行っていた私は、その頃出版された宝田氏の書籍について、出版社に自分の意見を述べた手紙を書いていたのだった。それに、宝田氏は対応して連絡をくれたのだった。それが、私と宝田氏との唯一の会話となった。ドスの効いた声は、確かに若い事務員が怖がってもおかしくないわけである。

 その頃の宝田氏はミュージカルに燃えていた。酒井法子氏なども出演すると自分の情熱を私に語った。私は常に夢に向かって挑戦を続ける人なんだと感じた。ともかくも、あの宝田明とお話ができたのは嬉しかった。

 

ゴジラ

 宝田氏といえばなんといっても昭和29年、最初の「ゴジラ(1954 東宝)」である。宝田氏はデビューまもなくにもかかわらず、この作品において、この大作の主演を演じている。

 日本初の本格的特撮怪獣映画だったので、スタッフの苦労は大変だったと思うが、その甲斐あって同作品は日本はおろか海外でも大ヒットを記録、すぐさま続編の製作が決定される。

 しかし、「ゴジラ」監督の本多猪四郎は続編の監督を辞退、それはゴジラに込められた戦争への意味合いからだといわれる。安直に続編を出すことは、あの戦争を体験した人々にとっては我慢のならないことだったのかも知れない。

 そういう発想は、宝田氏も同じだったのだろうか。満州から引き上げ、戦後も平和を語った宝田氏にとって、原水爆の権化であるゴジラの続編を商業的な成功が約束されているとはいえ、すぐさま製作するのは望ましいと思わなかったようにも感じられる。

 そういうわけで、「ゴジラの続編」、「キングコング対ゴジラ」には出なかった宝田氏は、4作目の「モスラ対ゴジラ」に主演し、私が初めて鑑賞する映画となる。同作品はモスラが出ていることからも、平和への祈りが大変強調されている。まあ、俳優と企画は別だし、今となっては知るすべもないが、何か思うところがあったのかも知れない。

 

平和の願い

 宝田氏の出演した映画の中で忘れられないのは、「世界大戦争(1961 東宝)」である。二つの陣営に分かれた世界が遂に第三次世界大戦を開始、一瞬にして世界の各都市は壊滅、人類は最後のときを迎える。平和を願う映画だが、翌年にはキューバ危機が発生、人類は危機一髪となるが、このときは、ケネディ、フルシチョフといった賢人達が人類最後の危機を話し合いで解決した。(そう考えると独裁者プーチンが暴れる現在の方があのときよりもっと危ないと感じる)

 宝田氏は晩年も世界平和を願い、核兵器のない世界を目指して平和活動を行っていた。それはゴジラに主演したというよりは、少年期に満州で受けた経験の方が大きいようにも感じられる。

 当方の二枚目俳優として活躍した宝田氏は、戦後、満州から旧ソ連の銃撃を受けながら必死に生還した。亡くなる4日前、ロシアのウクライナへの侵攻について、「現在のウクライナの人々は、かつての自分」と語ったそうである。少年時代と同じような状況となった世界の中で、宝田氏は静かに旅立った。その心中にはどのようなものだったのだろうか。私を怪獣の世界へいざなった宝田明氏のご冥福を心よりお祈りいたします。