追悼アントニオ猪木

追悼アントニオ猪木

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 日本のプロレス界を牽引し、多くの人々を魅了した燃える闘魂、アントニオ猪木が2020年10月1日、心不全により亡くなった。79歳だった。アントニオ猪木と自分との関わりについてご紹介したい。

 

アントニオ猪木の生涯

 アントニオ猪木1943年2月、横浜で生まれた。13歳のとき、家族でブラジルに移住し、そこで力道山に見いだされて日本に帰りプロレスの道を目指す。力道山死後はアメリカに遠征、武者修行をするが、貴国後東京プロレスを経て古巣の日本プロレスに戻る。日プロ時代はジャイアント馬場に次ぐ二番手という位置づけだったが、同じ団体ながら馬場に挑戦を表明するなど当時からライバル関係は開始されていた。

 その後日本プロレスは解散、アントニオ猪木は新日本プロレス、ジャイアント馬場は全日本プロレスを興してそれぞれ独立、両社は激しく対立した。本場アメリカに強大なコネクションを持つ馬場が有名人気レスラーを抑えられ、厳しい運営を迫られた猪木だが、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンなど無名レスラーをブレイクさせることに成功、さらには独自の異種格闘技戦路線を開拓して人気を集め、馬場を引き離した。

 1989年にはなんと参議院選挙に立候補、当選して政治の道を歩み始めると独自の外交路線を開拓、湾岸戦争時にはイラクに乗り込み、北朝鮮では平和の祭典を開き、二日間で18万人の観客を集めた。

 国会質問では「UFOは本当にいますか」など珍答弁も多かったが、以前より数多くの著書を上梓しており、リング上での活躍とともに、その強烈な行き方に共鳴する人も数多く、単なるプロレスファンに留まらず、「猪木信者」と呼ばれる熱狂的な支持者を生み出した。10月1日はNHKラジオが「番組の途中ですが・・・」と放送を中断して訃報を伝え、翌日の朝日新聞は1面でこれを扱った。テレビなど各マスコミはそれぞれ大きく扱い、猪木の死は国民全員に知らせる出来事だった。

 

猪木との出会い

 私は1968年、小学3年生のときに始めて猪木を見た。風呂上がりにぼぉっとテレビを見ていたら、四角いリングが映っている。ボクシングが始まると思っていたら、すさまじい形相の男が登場し、対戦相手の男を殴りつけている。アントニオ猪木対ブルート・バーナードの試合だった。パンチの連続にバーナードは流血し、両社もつれ合って場外に転落したと思ったら、まだ殴り合っている。そのうちに両者の仲間が闘いに加わるなど、あまりに予想外の展開に驚き、そのセンス・オブ・ワンダーに興奮し、私は一夜にしてプロレスファンになった。

 考えてみればプロレスは不気味な怪人や、謎のマスクマンなど、子供がわくわくするコンテンツにあふれている。小さい頃怪獣やヒーローものを見て育った子供の受け皿的な存在でもあった。

 猪木と馬場が分かれた後も、一流レスラーがたくさん登場する全日本より、狂気のレスラー、タイガー・ジェット・シンが暴れ、猪木が血だらけで応戦する死闘の方が断然面白かった。馬場は量で勝負したが、猪木は質、試合の内容で勝負した。

 1975年12月、アントニオ猪木はイギリスのビル・ロビンソンと対戦した。これはビックリするくらい名勝負だった。その前のストロング小林や大木金太郎との闘いを含め、こんな名勝負を次々とやり遂げてみせる猪木とは常人ではないのだなと思った。ウィレム・ルスカ戦では結果が知りたくて東スポまで電話した。

 その頃、アントニオ猪木がプロボクシングのモハメット・アリに挑戦する話が持ち上がった。プロレスは八百長だといわれている。それならプロボクシングの世界チャンピオンに勝ってみせて、強さを証明してやるというのである。私はこれに参ってしまった。プロレスの地位を高めるため、ボクシングに挑戦する・・・まさに私の運命を変えた企画だった。男のロマンとはこういうことをいうのか。プロレスという枠を超え、新たな闘いに挑む姿勢にあこがれた。こういう人生を歩むべきだと思った。

 1976年6月26日が試合の日だった。私は一週間くらい前から頭が「どうやってありと闘うか」でいっぱいとなり、試合の四日前には自分がありと闘う夢を見た。夢の中で、私はやっぱりパンチをよけるため寝そべっていた。アリ戦は当時酷評されたが、後に評価は変わった。新しい道を歩み出す勇気に感動した。私はアントニオ猪木が時折出す書籍をほとんど全部読みまくり、猪木ワールドに心酔した。何にでも挑戦していこうという気持ちが出てきた。

 

猪木と対面

 1990年、遂に猪木と対面するチャンスがやってきた。それは、なんとクリーニングの世界の話である。この年、業界紙が何かの式典を行い、そこで記念講演を行うのが当時参議院議員だったアントニオ猪木だったのである。会場は半蔵門の当たりだったと思う。

 大ファンの私は当然これに出席して最前列の真ん中に座った。クリーニング業者なんて臆病者ばかりなので、他の同業者達はみんな後ろの方に座って、前の方には私一人というような状況だった。

 やがて、アントニオ猪木が登場、話を始めた。大きな猪木が目の前に現れるとその迫力に圧倒された。講演は、子供の頃とかブラジルに渡った話など、ファンには定番のようなことから、プロレスに関する事などを延々二時間にも及んだ。しかし、聴衆が後方の席ばかりにいたので、猪木さんはほとんど私を見て話をしていた。終始、「あの頃はねえ、キミィ-」みたいな感じで講演が続いた。

 猪木は政治家になったくらいだから饒舌で、話を聞いていて面白かった。今日はクリーニング業者の集まりだから、ブラジル時代に聴いた「ポルトガルの洗濯娘」の歌の話なども出てきた。

 そして最後に、質問はありますかー、と質問コーナーの時間がやってきた。私は勇んで手を上げ、質問した。内容はこんなことだった。「私は今、この商売をしていますが、大きな業者などを相手になかなかうまくいきません。猪木さんは今まで幾多の危機を乗り越え、新日本プロレスを支えてきました。自分より強い相手、大きい相手と闘うコツを教えて欲しい」。

 猪木はどのように答えただろうか。おそらく、あのアントニオ猪木だから、やる気とか根性とかではないかと思うだろう。しかし全然違った。

 猪木の言葉はこのようなものだった。

 「いいか君、どんなことでも努力はして当たり前だぞ。その上で今、どうすべきか徹底的に考えるんだ。いつでも世の中は刻々と変わる。いろんなものが変化する。そこにチャンスも生まれるんだ。世の中の動きを的確にとらえ、自分のすべきことを徹底的に考え、そして行動するんだ。」こんなことだった。

 最後に、「わかりましたか!」と大きな声でいわれ、私は全身に電気が走るようだった。これはまさに神の啓示だった。これを境に、以降はいろいろうまくいくようになった。猪木に教えを受け猛烈に紅潮、興奮した私は半蔵門から上野まで雨の中、びしょ濡れになって帰った覚えがある。私がクリーニング業界において行ういろいろな行為は、アントニオ猪木の影響といって間違いはない。

これはまだ闘魂びんたとかが登場する前の話だった。猪木はこの直後、湾岸戦争下のイラクへ飛び、日本人の救出に成功している。

 

猪木の生き方

 今思えば、猪木は数々の困難な問題をそれこそ「頭を使って」乗り越えてきた。馬場に一流外国人レスラーを抑えられたときには他団体のレスラーを引き抜いて一大対決を催したり、柔道、ボクシング、空手といった他のジャンルの選手と異種格闘技戦を行ったり、年齢的な衰えが出ると突然政治家に転身し、イラクや北朝鮮など危険な地域で「平和の祭典」という大会を開いたりと、自身の努力とともに考えに考え抜いた奇想天外な発想も大いに評価されるものである。

 しかし、アントニオ猪木は失敗も多い。アントン・ハイセルが典型的だが、他にもおかしなミスは多くある。偉人とはそういうものなのではないか。歴史残るような偉業を達成しているが、大きい失敗もしている。何もかも成功しているわけではない。ただ、歴史は成功事例だけを取り上げるから失敗例は忘れられていく。そんなものだと思う。そう考えると、失敗はあまり気にしないことが大切なのかも知れない。

 思えば日本のクリーニング業界はプロレス界と大変似ている。アンドレ・ザ・ジャイアントの様な大きい会社もあれば、タイガー・ジェット・シンの様な反則技を仕掛けてくる会社もある。企業間競争はまさにプロレスそのものだ。特にクリーニングの場合、反則ばかりする無法な業者に溢れている。アントニオ猪木に憧れたのは、そういう世界に入っていくための心構えだったのかも知れない。

 最後まで闘っていたアントニオ猪木。まさに闘いのために行き、闘いのために死んだといえる。ありがとうございました。

 

(この文章は団体機関誌に載せたものを一部手直ししております)