ごあいさつ

ごあいさつ

 

 私は株式会社セルクルの社長、鈴木和幸です。当方のHPに来ていただき、ありがとうございました。

 ここに記載するのは私と職業であるクリーニングとの関わり、そして近年における私の考えであります。

 

生い立ちから社長へ

 私の会社は創業が大正10年と古く、大変古くからクリーニング業を行っています。つまり私は生まれたその瞬間からクリーニング業とは切り離せない関係ができていたのだと思います。

 私が小さい頃、会社は祖父が運営しておりました。その頃はまだ徒弟制度のムードが色濃く残っていた時代であり、作業場兼自宅に は数名の住み込み労働者(丁稚)がいたことがあります。当時のクリーニング業界ではそれが当たり前であり、クリーニングを志す人はそのようにして技術を習 得していたのです。

 4歳のとき、近所の中央館という映画館で次週上映の看板を見たとき、大変な衝撃を覚えたものです。映画の名前は「モスラ対ゴジ ラ」でした。父親に頼んで映画に連れて行ってもらい、この魅力にすっかりはまってしまいました。制作に関わった特技監督の円谷英二氏が自宅からすぐ近くの 出身であったことも大きな原因です。これは後に青年会議所などで町おこしの題材として取り上げられることになり、私は円谷英二氏の伝記などを執筆すること になりました。これは、後に業界関連の書籍を世に発表するということに大変重要な経験をしたと思います。

 小学校に入ると、父は祖父から独立するような形で引っ越しました。このころからクリーニング業界は徐々に大手会社が登場してき ましたが、父もその流れに沿って工場を建て、会社は徒弟制度の時代から徐々に企業化していきました。会社も大きくなり、やがてより大きな工場が必要となり、別な場所に工場を移転しました。その後、郡山市や会津若松市にも工場が建ちました。

 会社がだんだん大きくなると、父の役目も多くなります。父や青年会議所、商工会議所というところで役職を努める様になり、ロー タリークラブでは会長にもなりました。私はこれを、会社が大きくなるとそれに比例して社長の社会的役割が大きくなり、社会に果たす使命も増えるのだと解釈していました。私の少年期、青年期を通じてずっとそんな感じだったので、一般に会社をやっている人たちとはみんなこのような過程を経て、社会的地位を積んでいくものと考えていました。

 平成8年に自分が社長となっても、そういう社風を継承するというよりは、さらに独自の道を模索するようになります。実力のある ミュージシャンを呼んでクラシックコンサートを行ったり、ボランティア活動を行っています。父の姿を見て育った私には、社会活動と会社の発展が同時進行す るように思えていたのがそういう活動を推進する要因になっています。私の場合、生まれたそのときから地域のお客様の恩恵を受けていますので、余計にその気 持ちが強いと思います。

 日本中にクリーニング業者がいて、従業員を大勢抱える会社も多くありますので、みんなそんな感じで各地域に存在するのだと思いました。とりわけクリーニングは地域に密着した商売ですので、そういう色合いが強いものと思っていました。私も業界の大手が組織する団体に属し、機関誌を書くようになりました。

 

クリーニング業界への疑問

 ところが、全国の業者が、みんな私のような運営をしているわけではなかったのです。

 業界団体などを通じ、他の同業者達と接触が多くなっていったとき、この業界の人達はあまり他の業種の人達との接触がなく、同業 者や関連業者達だけで行動しているという印象がありました。しかし、それは別に悪いことではなく、そういうものなのだという認識でした。クリーニングは技 術分野などに独自性が強く、自然にそうなるのだと感じていました。

 1999年、ある婦人雑誌に、商業クリーニングに対する批判記事的な特集がされ、その中には、「あるチェーン店では、汚れていないものは洗わず、乾燥機で回しただけで返す」とありました。クリーニング業者が洗わなかったら大 変です。私は所属する団体の人達と雑誌社に行き、真相を聞こうとしましたが、そういう業者は間違いなくいるといわれましたが、守秘義務を縦にすべてはわか りませんでした。この後、「空気洗い」というものが存在するとか、厚生労働省直轄の業界団体、全ク連が、この問題に関しては全く動かなかったことから、この問題が思っていたよりもずっと根深いクリーニング業界の体質であることをうかがわせました。この件以来、私はクリーニング業界に対して懐疑的な印象を持 つようになりました。この人達には、なにか裏の世界がある。同業者であっても口には出さないものがある。その様に感じました。

 2001年、この頃業界でめざましい発展を遂げる会社の見学会がありました。この会は盛況で、150人もの見学者が訪れました。この会社は発展の原動力となったシステムをノウハウとして同業者に販売しようとしましたが、これ を実際に見たほとんどの人が、そのシステムに疑問を持ちました。「これで追加が取れるのか?」という印象です。翌年、週刊誌がこの会社のことを「誰も知らない汚れたクリーニング商法」というタイトルで告発しました。この会社のシステムがインチキだというのです。この業者は週刊誌を相手取って訴えを起こしましたが、敗訴。この会社は業界を代表する大手なのです。それなのにこんなことをするとは……。

 

反社会的なクリーニング業界

 2009年、遂に運命的な事件が起こります。前年に当方の商圏である会 津若松市に業界でも最大手の業者が進出してきました。しかし、工場が建ったのはクリーニング工場が建設できない近隣商業地域。普通に考えると建築基準法違 反ということになります。これはおかしいと思って役場から書類を取り寄せたら、そこにはありもしないデタラメが書いてありました。これはおかしいと追究したら、業者は逃げ回ります。協力的な同業者からの情報により、この会社は他でも同様な不正行為を繰り返し、脱法行為を会社発展の原動力にしていたことがわかりました。やがて優秀な新聞記者がこの会社の資材業者ぐるみの隠蔽行為を明るみにし、なんと全国紙社会面で報じました。2009年7月11日の朝は、朝刊を見てビックリしたのを今でも覚えています。

 この業者の進出から発覚まで約一年間かかりましたが、こんなに延びたのは、この業者の以外にも、これに関連する業者が隠蔽工作に協力したことがあります。なぜか各業者がこの事実を必死になって隠蔽しました。溶剤を販売する会社などは、通常はローリー車で各工場に搬入する石油系溶剤を、この会社の仙台にある他の工場からポリタンクに入れて運送業者に運ばせるような、露骨な隠蔽工作まで行っていました。ここまでして不正行為に荷担することには大変驚きました。

 建築基準法がクリーニング工場の建設を規制するのは、火災が発生した場合、爆発的に燃え上がり、危険だからです。住民の危険を顧みずに利益を追求したのには驚きましたが、実はこんなことは大勢の同業者がやっていたのです。その後、業界の会合で上京した際、業界紙の記者から「君は偉いことをしてくれたね。クリーニング業界は実は多くの業者が違反しているんだ」といわれ、開いた口がふさがらなかったです。クリーニング業界は、反社会的な業者の集団の様にも思われました。

 

お客様のために

 その後も、クリーニング業界には問題が多いことがだんだんわかってきました。店頭に安い価格を提示し、いろいろ理由を付けて追加料金を取る手法(景品表示法違反)、エリ汚れ、シミ抜きなど当たり前の通常作業を単価アップの目的で有料化する手法、わかのわからない、効果不明の加工を顧客に勧め単価を上げる方法などです。いずれも消費者の利益を損ねる結果になります。

 本来、お客様の衣料品を預かり、きれいに仕上げてお返しするはずのクリーニング業が、どういうわけか歪曲し、屈折したビジネス を繰り広げるようになったとしか思えないのですが、そこに至るには、実はいろいろな変遷があったのですが、それにしても、クリーニングを利用していただく お客様に対し、背信ともいえる行為が現在も繰り返されていることは誠に不可解で残念です。

 最近の私は、もっぱらそういう業界の問題点を指摘し、改善するべく活動しています。2011年には「ニホンを洗濯する クリーニング屋さんの話」と、「さよなら」という、いずれもクリーニング業界の問題点を指摘した書籍を発表致しました(駒草出版より発売)。

 日本のクリーニング業界は昭和40年頃に大きな変化がありました。それまでは職人の仕事として存在し、一枚岩でまとまっていた業界に、機械の発達でオートメーション化された大手業者が参入してきたのです。業界は二つに割れ、収集がつかなくなったことが諸問題の根元にあります。昔から操業し、二つの時代を知る自分としては、やはり業界の正常化を目指していくことが大切ではないかと思います。私は生まれた瞬間からクリーニングを利用して下さるお客様の恩恵に授かっていますので、そういう思いはなおさらです。

 本来当HPのこの部分に関しましては、私個人のことが主体になりますが(以前は円谷英二研究の方が多かったのですが)、近年の活動がそういうクリーニング業界の問題提起に集中しておりますので、その様な表記が多く見られると思います。その点もご承知下さい。

 どうか今後とも、よろしくお願いいたします。